間宮方好(まみやかたよし)     延宝元年〜享保3年(1673-1718)

    御目付。名、信常・吉太夫・庄五郎・靱負。父、間宮信要(長男)。常陸国鹿島郡・下野国那須郡など800石。元禄7年(1694)叔父間宮信明の養子となり、遺跡を継ぐ。元禄8年(1695)将軍徳川綱吉に拝謁。元禄10年(1697)御書院番。元禄11年(1698)進物役。元禄16年(1703)屋敷改め。永宝7年(1710)御徒頭。正徳元年(1711)御目付。享保元年(1716)勤めを辞めて寄合となる。徳川綱吉・家宣2代の将軍に仕え晩年には布衣着用を許された。先妻は、堀又兵衛長郷の娘。後妻は、大井新右衛門政長の娘。46歳。「・・・日実居士」。
※ 千葉県八千代市高津の「高秀霊神社(こうしゅうれいじんじゃ)」の祭神は、間宮方好の4代前の間宮政秀。政秀は、元和元年(1615)の大坂夏の陣で戦死した高津村の2代目領主。政秀の従者が、主君の首を持ち帰り観音寺に埋葬。のちに、6代当主の間宮靱負方好(まみやゆきえかたよし)が「高秀霊」として祀った。なお、のちに政秀の忠死を将軍徳川家光に認められ高津間宮家は旗本になる。現在の堂宇は、昭和41年(1966)に市民により再建されたもの。

間宮士信(まみやことのぶ)     安永6年〜天保12年7月13日(1777-1841)・・・24日説あり

     地理学者。名、信民。通称、総次郎のち庄五郎。号、白水。父、間宮公信。江戸出身。寛政10年(1798)22歳で家督を継ぐ。幕府の命により地誌取調所の一員となり「武蔵風土記稿」・「相模風土記」を監修する。著書:「小田原編年録」、「編脩地誌備用典籍解題」、「古今感状集」。「得成院殿最正日覚居士」。

墓は、長明寺墓地(谷中5-10-10)。高地側墓地、稲荷堂横入り、右側。谷中過去帳によると同墓域には、[間宮政秀の子]間宮正勝(1605-1671)→[子]間宮信政(1622-1693)→[子]間宮信明(1672-1694)→[養子・間宮信要の子]間宮方好(1673-1718)→[養子]間宮方信(1701-1745)→[子]間宮信直(1721-1765)→[子]間宮公信(1749-1798)→[子]間宮士信(1777-1841)らと正勝の弟間宮正行(1637-1701)が合祀されているとされる。ただし、2基の墓碑に記載されている日付で確認できるのは、向かって右側の正勝と信明と士信夫人だけである。なお、地理学者間宮士信墓は、東京掃苔録では合祀されているとしているが、八千代市観音寺にあるという資料もある。長明寺を菩提寺としたのは、間宮正勝。因みに、間宮林蔵とは、遠縁で、間宮正勝の4代前の間宮信元の後に分かれる家流の後裔となる。