松平斉民(まつだいらなりたみ)/松平確堂    文化11年7月29日〜明治24年3月23日(1814-1891)

    津山藩第8代藩主。父、徳川家斉(16男/実19男)。生母、牧野忠克のむすめ土屋八重(皆春院)。幼名、銀之助。号、確堂。文政7年(1824)斉民と改める。文政9年(1826)近衛権少将。文政14年(1817)9月美作津山藩第7代藩主松平斉孝(なりたか)の娘從(より)と婚姻するも翌年お産で從が死去。翌年斉孝の弟松平維賢の娘敏と再婚し、天保2年(1831)家督を相続し藩主となる。天保8年(1837)正四位上左近衛権中将。8月天保14年(1843)ペリーが浦賀に来航のおり、幕府の諮問に応じて斉民は意見書を提出し開国を説く。安政2年(1855)養父斉孝に実子が生まれたので若隠居し、確堂と号し、義弟の松平慶倫に家督を譲った。ここで藩内が佐幕・勤王の2派に分かれ抗争となる。慶応元年(1865)入廟し公武合体の計略を勅拓される。明治元年(1868)静寛院宮親子内親王の守衛を努め、のち徳川亀之助(家達)の後見人となる。側室は、松平京子(勝田猪之助の娘:嘉永2年9月6日〜大正13年8月13日:「清観院殿寿誉梅亭大姉」)。側室は、松平須磨子(渡辺嘉兵衛の娘:天保9年〜明治39年2月7日:「春整院殿香誉梅月大姉」)。

墓は、寛永寺谷中墓地。徳川慶喜墓東側の低地のほぼ中央。正面「文定院殿成誉寂然確堂大居士」。写真中は、清観院殿、右は、春整院殿。