松平忠容(まつだいらただやす)    享保7年6月11日〜安永10年1月23日(1722-1781)

    信濃上田藩小姓組番頭。字、善大助。姓、源氏。号、笠翁。父、松平に引き継がれてからの初代信濃上田藩主5800石松平忠周(ただちか)(五男)。母、石井氏。享保13年(1728)4月忠周が死去し、松平忠愛(ただよし)が5300石を継ぐ。このとき遺言により弟の松平忠容が信濃河中島5000石を分与され、寄合に列する。従五位下民部少輔。宝暦6年(1756)小姓組番頭に准ずる諸事を司る。西域の側役となり、諸事を執り行う。伊賀守青山邸侍従。60歳。

石塔裏面の略歴は下記のとおり(不正確御免)。

氏部少輔五位下諱忠容小字善大助姓源氏松平其先出自
信濃上田城主従四位下侍従無伊賀守諱忠周之季子也侍従
?之享保壬寅(7年)夏六月十一日生公於堀河部侍従公遷為執政
?公来於 東都而居青山之邸戌申四月侍従公卒嫡忠愛嗣
朝割信濃河中島5千石為公之食邑盖侍従公遺言也元文中
西域給事中以性多病?(しばしば)迄骸骨  優論不許特  恩令温
以養?世以為栄宝暦丙子(6年)春二日准親軍元帥其五月排侍中
如内謁(まみえる)者云無何以病致仕而難髪自号笠翁間適養老安永辛丑(10年)春正
月二十三日卒享年六十葬于  東都天徳寺男一人名忠常即嗣
?恭奉命為銘銘日生存相府憔仕在  公支封之祖有?令
安永十年歳次辛丑二月二十七日

墓は、乙3号12側。正面「松平祖先之墓」。ただし、西久保天徳寺(東京都港区)に葬ったとあるから、ただの記録だけかも知れない。横に松平忠質の室である松平彦子(さとこ)墓(1814-1890.9.30:嗣子松平説三建立)がある。