松平頼聡(まつだいらよりとし) 天保5年8月4日〜明治36年10月17日(1834-1903)
讃岐高松藩第11代(最後)藩主。父、第9代藩主松平頼恕(四男)。嫡子の兄松平頼熙が早世のため、嘉永6年(1853)第10代藩主松平頼胤の養子となり、将軍徳川家定に拝謁。従四位下侍従、宮内大輔。安政4年(1857)左近衛権少将。讃岐守。文久元年(1861)頼胤隠居に伴い第11代藩主となる。文久3年(1863)徳川慶喜と縁戚関係があったため佐幕派として二条城警備のため上京。元治元年(1864)禁門の変では、藩兵を率いて小御所を守り、朔平門を警護する。また、征長の役では四国第2陣として出陣。慶応元年(1865)第2次征長の役では西宮警備にあたる。慶応4年(1868)1月鳥羽伏見の戦いでは、幕府軍に応じたため、戦後に新政府から朝敵とされ官位や邸地を失う。新政府群が高松に向かうことになったとき、速やかに恭順の意を表し、かつ軍資金8万両を献じ、2月末に許され、官位も復される。奥羽征討には藩兵500を従軍させる。若松落城後に東京に凱旋。明治2年(1869)版籍奉還で高松藩知事となり、家禄10576石を賜う。明治4年(1871)藩知事を命じられ東京帰属を命じられ、東京に移るが、このとき東讃蓑傘騒動が起こる。明治17年(1884)伯爵。従2位。70歳。正面「厚徳院殿闡蓮社温誉知遠懿大居士」。夫人千代子は、井伊直弼の二女。83歳。正面「清徳院殿円誉心月妙照大姉」、裏面「昭和五年一月六日卒」。
松平頼壽(まつだいらよりなか) 明治7年12月10日〜昭和19年9月13日(1874-1944)
伯爵。松平頼聡(上記)の8男。旧高松藩の12代当主。明治36年(1903)家督を相続。明治41年(1908)規則院議員、甲寅倶楽部に属す。昭和8年(1933)貴族院副議長。昭和12年(1937)同議長。議長・副議長は、公・侯爵議員がなるという慣例からは異例となった。韓・満地方を巡視し、前韓国皇帝より勲1等八卦章を贈られる。日本競馬界理事長議員制度調査会等各委員。紺綬褒章受章。昭和15年(1940)中華民国新政府成立慶祝国民使節として特派。その他多くの会長・会頭などに就任。正二位勲一等。能、小品盆栽、書画、乗馬など趣味多彩。71歳。正面「正二位勲一等伯爵松平頼壽之墓」、「大観院殿信蓮社格誉嶽源恭大居士」。夫人昭子は、徳川昭武の長女で徳川國順の叔母にあたる。正面「松平頼壽伯爵夫人昭子之墓」、「松寿院殿鏡誉玉室慈昭大姉」。
※ 大正12年(1923)「日本の将来はこれからの青少年の育成にかかっている」という信念のもとに、「個性の尊重と国家有為の人材の育成」を掲げて豊島区駒込の自宅7000坪を提供し本郷中学校を設立した。また、現在の高松城披雲閣は、大正6年(1917)松平頼壽の私財により建てられたもの。
墓は、谷中霊園乙4号1側。乙4号は、1側〜6側まで2セットあり、低地の方(東側)。谷中墓地で最大のエリアを持つ。徳川慶喜公墓所より大きい。石塀で囲われていて非公開だが、門の外から見ることができる。南側にある2基(写真下)は、旧高松藩12代当主松平頼寿・昭子夫婦の墓。
藩主は11代までであるが、その間の藩主の名は、谷中墓地には見当たらない。
※ 周囲には、多くの子女の墓がある。
「超勝院殿香誉玉蓮大童子」、「誓光院殿最誉勝◇貞禅大姉」、「聲徳院殿定誉香蓮池照大童子」、「顕光院殿◇◇◇◇◇◇大童女」、「宝池院殿聞誉善◇妙◇大童女」、「常諦院殿住誉一実勝因大姉(旧讃岐高松藩主伯爵家)」、「観月院殿光岳涼大童子」、「真玉院殿光誉涼月静山大童子」、「智徳院殿良誉順貞大姉」、「仲信院殿善誉好順勝妙大姉」、「貞操院松誉坤徳妙鏡大姉」、「信光院感月◇応大姉・瀬尾古代子」、「寿松院寒月清影大姉・三野瀧尾」、「止観院実誉妙環大姉・寺沢元浦」、ほか1基。
合祀墓1「松平家之墓」:「端耀院殿照誉玉堂源親大居士・明治四十二年十二月二十八日卒」、「泰安院殿頴誉学堂源譲る大居士・昭和十八年十月一日卒」、「端心院殿敏誉貞徳清芳大姉・昭和二十三年一月三十日卒」、「清安院殿誉徳室妙貞大姉・平成八年十月十七日卒」。
合祀墓2「松平家之墓」:「碧雲院殿和誉飛翔妙華大姉・平成八年十一月八日」、「翠松院殿清誉覚道浄光居士・昭和三十三年十月一日逝去当七十八才」、「紫雲院殿幣誉松嶺徳操大姉(松平翠室、毛利元雄の妹)・昭和三十年三月三十一日逝去当六十四才」、「清岸院殿浄誉遊道覚晋童子・大正五年六月二十九日夭当三才」。