松本万年(まつもとまんねん) 文化12年8月25日〜明治13年9月18日(1815-1880)
幕末の漢文学者。幼名、一郎のち政秀。字、子邦。号、萬年・文斎・久斎。父、松本左団次。秩父出身。初め足立春英について医学を学ぶ。のち江戸に出て寺門静軒(てらかどせいけん:寺門弥五左衛門:1791-1868)に師事し、漢学を学ぶ。江戸の諸大家と交遊、各地を歴遊。帰郷して医業の傍ら子弟を教育。ここで後に日本の女医第一号となった荻野吟子(1851-1913)や第二号の生沢クノ(1864-)を教育。寺門静軒の創立した「両宜塾」を継承。明治8年(1873)東京師範学校で教鞭を執る。東京日日新聞記者。また家塾「止敬学舎」を創立し娘の松本萩江を教授とし女子教育にあたる。66歳。著書:「文明余誌 田舎繁盛記」、「東京新橋雑記」、「文斎雑抄」、「示蒙請説」。66歳。
松本荻江(まつもとはぎえ) 弘化2年1月28日〜明治32年9月15日(1845-1899)
教育者。幼名、睦。父、松本万年(長女)。武蔵国秩父郡大宮郷(埼玉県)出身。19歳で隣り村横瀬の長島某と結婚。1男を産むが7歳で夭折する。毎日読書にふけり離縁されたという。長島家を去り生家に戻る。父万年が埼玉県妻沼村に学舎を開くと、荻江は、ここで漢学を学ぶ。門下生に荻野吟子がいて二人は義姉妹の契りを結ぶ。明治8年(1875)ころ豊田秀雄と東京女子師範学校4等訓導(先生)。明治10年(1877)助訓。明治14年(1881)助教諭。また万年の家塾「止敬学舎」でも教授を勤める。のち、辺地教育の必要性を感じ秋田県女子師範学校教頭となったが、明治19年(1886)在野の教育家を志し、仏教・キリスト教を学び、洗礼を受け、神戸女子神学校の教授となる。日清戦争中は、婦人奉公会を結成、将兵の激励や家族の慰問などを行う。明治31年(1898)下田歌子が帝国婦人協会を結成すると舎監となり、下田歌子の実践女学校創設に助力。55歳。
墓は、天王寺墓地。甲9号17側の奥。通路の南側。玉乃世履墓から西側(奥)は天王寺墓地となる。松本荻江と並ぶ。オオムラツツジに隠れて正面からは見えにくい。