松尾相保(まつおすけやす)     文政12年〜明治12年11月13日(1829-1879)

    王政復古の前日に岩倉邸において政変の準備に当たった一人。通称、伯耆。父、松尾社神主南栄親(三男)。同族の非蔵人松尾伯耆相尭の養子。天保8年(1837)非蔵人の見習いとして出仕。天保11年(1840)壱岐と名乗り、弘化4年(1847)非蔵人となる。嘉永4年(1851)伯耆と改称。万延・文久年間は儲君御用掛・和宮入輿御用掛ほか。文久年間国事書記御用掛となり国事に奔走するも文久3年(1863)罷免となり、8月18日の政変で参朝・他行・面会を停止される。慶応3年(1867)赦免。王政復古の際の働きにより、三職御用掛となる。明治元年(1868)参与兼弁事・神祗権判事。戊辰戦争に従軍し、明治3年(1870)正七位宮内権少丞・内膳権正。明治4年(1871)退官。明治10年(1877)王政復古時の功績により、明治天皇より金300円を賜る。51歳。
※ 王政復古の前日慶応3年12月8日夜、岩倉具視は自邸に薩摩・土佐・安芸・尾張・越前各藩の重臣を集め、鴨脚光長・松尾相永・松尾相保・中川元績・吉田良栄ら非蔵人と共に王政復古の断行を宣言、協力を求めた。
※ 非蔵人(ひくらうど):賀茂・松尾・稲荷などの神職の家や家筋の良い家から選ばれ、無位無官で宮中の雑用を勤めた者。

墓は、谷中霊園 甲9号19側。ぎんなん通りに面する。正面「正七位松尾君之墓」。