松浦交翠軒(まつうらこうすいけん) 天保15年〜宝永4年9月27日(1644-1707)
儒学者。名、黙。字、成之。号、交翠軒。通称、藤五郎。播磨出身。はじめ林春斎に師事。15歳で姫路藩松平大和守直矩に仕え、藩命により江戸で林鵞峰(大學頭)に師事、経史を学ぶ。5年後に直矩が亡くなったのを機に仕官を断念、講説を業とし、大勢の門弟を有するに及んだ。貞享年間に閣老河越侯喬知(たかとも)に金銭的支援を受けるが、仕官せず賓師となる。元禄7年(1694)将軍徳川綱吉に仕え御近習番となる。綱吉没後辞官し、江戸にて講説を業とする。交翠軒は、程朱の学を確信して己の所見を書きものにして弟子に示し、「天命の性とは万物の一源なり、然れども天地人は本と渾淪一体にして始より間隔する所あらず、ただ天人形質相分かるるに由あり、故に天賦物受の義を取りて、而して性と命を異にするのみ、実は彼来って此れを襲ふに非ず、その本来は渾淪一体なる者にして、言語の能く象どる可きに非ず、黙して識るべきなり」と言っている。64歳。著書:「孝經證解」、「論語證解」、「大學授蒙資講」、「齊東野語」、「諺故事」、「勢免天嘉多連」、「及文稿」など。
墓は、浄光寺墓地(西日暮里3-4-3)。山門より入り右に行き、隣地(養福寺側)境の塀に沿ってJR線路方向に行き、突き当りより手前約10m左側。正面「交翠先生松浦君墓」。