毛受洪(めんじゅこう/ひろし)     文政8年7月17日〜明治33年4月19日(1825-1900)

    越前福井藩権大参事。名、彦一・寛洪・洪。通称、鹿之助・戸作・将監。父、毛受伝三郎福高(600石)(長男)。福井県出身。藩も世臣の家に生まれる。安政2年(1855)藩校「明道館」講研師となり、翌年訓導師となる。外塾師取扱係・他国学問修行取扱などを歴任。安政6年(1859)家督を相続、大番頭。のち、書院省頭格・用人奏者兼軍帳掛。文久3年(1863)京都に出るが、「堺町の変」が起こり、帰藩し報告。明治元年(1868)役所掛、参与兼弁事。明治2年(1869)福井藩公儀人。福井藩権大参事・集議院幹事。従四位。

墓は、谷中霊園 甲9号14側。正面「毛受家先祖代々之墓」。「信受院釈真海洪如居士」。墓は、福井県大安寺にもある。