光永星郎(みつながほしお) 慶応2年7月26日〜昭和20年2月20日(1866-1945)
電通社長。幼名、喜一のち星郎。号、八火。父、光永雄喜(長男)。熊本県出身。自由民権運動をして保安条例違反となり東京を追放となる。明治2年(1869)大阪朝日新聞九州通信員。のち日清戦争になり従軍記者。報道の第一線に立ち、台湾総督府官史などを転々としたが、明治31年(1898)官制改革を機に辞して、明治34年(1901)日本広告株式会社を創立し常務取締役となる。明治39年(1906)電報通信社を設立し、通信を発行。明治41年(1908)両社を合併し、日本電報通信社とし、専務取締役となる。のち、社名は、「電通」となる。大正2年(1913)日本新聞協会設立、理事長。大正12年(1923)電通社長。昭和8年(1933)貴族院議員。昭和11年(1936)新聞連合との合同により日本同盟通信社の成立とともに、社長に就任。のち、通信部門を日本同盟通信社に譲渡、一方、同盟の広告部を吸収し、広告代理業専業となった。昭和15年(1940)勇退。80歳。