宮城玄魚(みやぎげんぎょ/みやぎはるな)・桜素亭玄魚/梅素亭玄魚/宮城梅素(みやぎばいそ) 文化13年12月〜明治13年2月7日(1816-1880)・・・文化14年説あり
書画家・経師屋。本名、宮城喜三郎。父、宮城彦三郎。東京日本橋石町4丁目で生まれ浅草に住む。名、貞雄。号、整軒・桃園・科斗子・水仙子・小井居・梅素・楓阿弥等。黄表紙や浮世絵の絵や文章には梅素亭玄魚を名乗った。15歳で浅草の書画骨董家万屋金子吉兵衛の丁稚となる。御家流(おいえりゅう)書家武田交米に師事。また、国学者で歌人の岸本由豆流(きしもとゆずる:1789-1846)の門に入り、和歌でも有名となる。父の老いにより20歳で家に戻り父の家業を手伝うが、書画の版下を得意とし、注文も多かったことから、経師職を辞め専らこれに従事し、小説の版下でも有名となった。活字の秀英体B型仮名書風の版下を作り、活版印刷の成立に大きな貢献をした。また、千社札・絵ビラに使われる江戸文字を創った。発句を守村抱儀に師事、狂歌を良く詠み、狂文も綴った。なお、仮名垣魯とも交流があった。64歳。著書:「大工注文往来」、「 開化漢語用文」 。
墓は、谷中霊園 甲4号3側。さくら通りに面する。正面「宮城玄魚墓」。