森川鍵蔵(もりかわけんぞう)    明治2年6月14日〜大正6年9月7日(1869-1917)

    漢詩人。字は雲卿。竹ケイ(渓の石偏)・鬢絲禅侶・聴秋仙館主人等と号す。父は、幕府旗本の森川荘次郎(後に義利)、母は服部筑後守勝全の女美喜(幹子)。荘次郎は川勝広道の親友で、歩兵頭並・外国奉行並・開成所奉行並を歴任、維新後には、兵学寮の大属となった。鍵蔵は、初め溝口桂巌・馬杉雲外に学んだが、後に森槐南門に入り、また清人陶杏南に学んで詩餘をよくした。雲外門の同門藤沢竹所・篠崎柳園等と謀って「鴎夢吟社」を設立し、その機関誌として「鴎夢新誌」を刊行、詩文のみならず詩餘の普及につとめた。後大正2年(1913)には「詩苑」を創刊した。詩餘は、単に「詞」とも言い、中国唐末から宋代にかけて流行した歌謡文学である。江戸以前にも詩餘に手を染める詩人はいたが、質量ともに日本で最も充実するのは明治期で、その中心となったのが森槐南・高野竹隠と森川鍵蔵であった。著書:「得間集」、「夢餘稿」、「詞律大成」等がある。森川鍵蔵は槐南の妹婿でもあり、義父・森春濤の「春濤詩鈔」、槐南の「槐南集」両書の編纂にも尽力した。なお平成15年(2003)には中国で、槐南・竹隠・森川三家の詞を集めた「日本三家詞箋注」(張珍懐箋注、澳門中華詩詞学会刊)が刊行されている。森川鍵蔵については、立命館大学文学部教授の萩原正樹氏により研究されている。
※ 故人歴情報は、萩原正樹様のご提供による。

墓は、谷中霊園 甲2号7側。正面「竹ケイ森川鍵蔵墓」。右隣りに父の森川義利(明治16年12月9日歿)の墓碑がある。