村垣範正(むらがきのりまさ)/村垣淡叟(むらがきたんそう) 文化10年9月24日〜明治13年3月15日(1813-1880)
幕臣・外国奉行。初名、範忠。通称、与三郎のち靖簡。淡路守。父、村垣範行(二男)。江戸築地出身。天保2年(1831)小十人格庭番。弘化2年(1845)細工頭。嘉永3年(1850)賄頭。安政元年(1854)勘定吟味役と進み、海岸防御筋御用取扱となり松前・蝦夷に赴き日露国境を確認。シベリア総督ムラウィヨワ来日の折には、若年寄り遠藤但馬守胤統らと樺太談判を行う。その間、下田に地震・津波が発生、ロシア艦ディアーナ号難破事故が起こったが、日露間において修好条約が締結された。安政2年(1855)箱館表御用・大筒鋳立大船そのた船製造御用・東海道筋川普請掛。安政3年(1856)箱館奉行となり淡路守と称する。安政5年(1858)岩瀬忠震に代わり外国奉行兼務となり神奈川開港準備をする。安政6年(1859)神奈川奉行兼務。安政7年(1860)1月日米通商条約批准使節団副使となり渡米、往きはハワイ経由で復路は大西洋を通って9月帰国。日普(プロシア)通商条約交渉全権委員。文久元年(1861)箱館奉行としてロシア箱館領事にロシア船の対馬退去を交渉。以後国内任務となり文久3年(1863)6月作事奉行。元治元年(1864)8月西丸留守居、若年寄支配寄合。慶応4年(1868)2月病のため退官。以後、淡叟(たんそう)と号した。68歳。著書:「遣米使節日記」。68歳。
墓は、天王寺墓地。朝倉文夫墓前通路の佐藤立軒墓前。「靖簡村垣府君淡叟墓」。中央区の心法寺にもある。