室田義文(むろたよしあや)     弘化4年9月19日〜昭和13年9月5日(1847-1938)

    全権大使。父、旧水戸藩士室田平八(二男)。弘化4年(1847)分家して一家を立てる。外務省洋学校に入学。明治2年(1869)外務省出仕。太政官政府の初期官僚の一人となる。外務権少録。領事・総領事・外務書記官・外務省会計局長・メキシコおよびペルー駐在特命全権公使など歴任。特命全権大使となり、退官後実業界に転身。百十銀行頭取・北海道炭鉱汽船・大日本人造肥料各取締役会長。蓬莱生命保険・鐘淵紡績・三共・南米拓殖各監査役。三井財閥の重鎮として昭和初期まで鐘紡の大陸進出に尽力。明治34年(1901)貴族院議員。錦鶏間祗候。従四位勲二等。92歳。夫人久良子は、中根正邦の娘。
※ 明治42年清国ハルビン駅頭で狙撃された伊藤博文に首席随行、狙撃現場に居て、自らも被弾し負傷する。この事件は室田の証言もあるが、犯人の解明がなされておらず、ミステリーのままとなっている。
※ 初代駐ペルー公使となった室田義文と森岡商会の田中貞吉の努力によって初めての日本人集団移民が許可になったが、それは明治26年(1893)ペルーと日本間に通商条約が改定され、室田義文メキシコ公使がペルーの公使も兼ねることにはじまる。明治32年(1899)2月に最初の邦人790人が日本からペルーへサクラ丸で移住していった。しかし、新天地といわれたところは、過酷な労働と風土病などの厳しい生活で、初期に入植した日本人は、ほとんど亡くなってしまったという。室田義文は、現地調査に出向いたが、官僚特有のおざなりな報告だったという。

墓は、谷中霊園 甲1号1側。正面「室田義文/室田久良子 之墓」。