難波宗礼(なんばむねあや) 天保3年〜明治17年2月24日(1832-1884)
東坊城松子(ひがしぼうじょうまつこ) ?〜明治9年12月17日(1876)
幕末明治の公家・難波家24代当主。父、23代難波宗弘。室、東坊城松子(東坊城聡長の娘)。子(宗明の弟)の難波宗美(なんばむねよし)が明治17年(1884)7月8日に子爵を叙する。難波家は藤原北家師実流の嫡流の花山院(かざんいん)家で、京極摂政藤原師実の5男難波忠教を祖とする。平安末期の創設だが南北朝時代に約230年もの中絶する。その後、飛鳥井雅庸の子宗勝(雅宣)が14代を再興したため、飛鳥井庶流とされることもある。蹴鞠を家業とし、難波流と言われたが近世までに衰退した。条約幕府委任反対の88卿列参に参加。
※ 14代宗勝(むねかつ:1586-1651)。15代宗種(むねたね:1610-1659)。16代宗量(むねかず:1642-1704)。17代宗尚(むねひさ:1668-1699)。18代宗建(むねたけ:1697-1768)。19代宗城(むねき:1724-1805)。20代宗薫(むねもと?:1752-1776)。21代宗享(むねたか?:1770-1808)。22代宗職(むねもと?:1789-1844)。23代宗弘(むねみつ:1807-1868)。24代宗礼(むねあや:1832-1884)。25代宗明(むねあき)。
墓は、谷中霊園 乙7号6側。正面「難波家之墓」。