南摩羽峯(なんまうほう)    文政6年11月25日〜明治42年4月13日(1823-1909)

    国学者。本名、南摩綱紀。通称、八之丞。号、羽峯、中州。会津藩士。会津若松出身。父、舎人助綱雅(三男)。幼くして日新館で学ぶ。弘化4年(1847)25歳で藩命を受け昌平黌(後の東京帝国大学の源流の一つ)に学ぶ。この時代に亀山節宇(かめやませつう:1822-1899) とともに詩文係を勤め、重野成斎(しげのせいさい:1827-1910)、岡鹿門(おかろくもん:1833-1914)らと学友となる。嘉永4年(1851)藩命により洋学に転向、医学を杉田成卿(すぎたせいけい:1817-1859)および洋学を石井密太郎に師事する。安政2年(1855)33歳から4年をかけて関西や九州を視察。見聞録として「負笈管見」を残した。のち洋学舎を創設。文久2年(1862)樺太警備や北海道東岸の幕府領代官を務める。慶応3年(1867)京都に行き、戊辰戦争時には大坂を拠点に幕府側につき諜報活動をし、帰藩して若松城が陥落、囚われて越後高田に謹慎となる。維新後は、赦免され、京都府の学職、太政官、文部省を経て東京大学教授、東京高等師範学校教授。87歳。著書:「環碧楼遺稿」、「追遠録」、「内国史略」など。

 
墓は、谷中霊園甲1号7側。さくら通りより2基目。正面「従四位南摩羽峰先生之墓」。碑は、甲3号5側。さくら通り沿い。三島毅(大審院判事・ 東京大学教授・大正天皇の漢学の侍講で文学博士・二松学舎の創始者:1830-1919)撰文(作文)。