成川尚義(なるかわなおよし) 天保12年8月20日〜明治32年11月27日(1841-1899)
三重県知事・貴族院議員。名、尚義・尚禎三郎。号、館山・堆碧。父、石田治平。のち、成川家の養子となる。千葉成東町白幡出身。家は貧しかったが、幼少よし勉学・剣道に励み、才知機略に長じる。幕末に勝海舟の知遇を得て事態の収拾に尽力する。維新後、中島鉄胤の勧めで明治政府に出仕。明治2年(1869)若森県大参事。明治4年(1871)新治県権参事。明治5年(1872)新川県権参事。明治10年(1877)宮城県大書記官。明治13年(1880)ころ内務少書記官。明治14年(1881)大蔵権大書記官、常平局長。明治15年(1882)庶務局長。明治17年(1884)大蔵大書記官。明治21年(1888)大蔵省参事官。明治22年(1889-1896)三重県知事。地方政治に関与し産業の振興、民生の安定に尽力。房総鉄道会社社長。明治30年(1897)貴族院議員・錦鶏間祗候。帝国商業銀行取締役会長。従三位勲三等。59歳。子は、日本銀行国庫局調査役成川義太郎(1866-1919)。
※ 農家がツバメの保護を願い出て、知事成川尚義がツバメの捕獲を禁止した。これがわが国最初の鳥類保護制度と言われている。
墓は、谷中霊園乙5号1側。正面「従三位勲三等成川尚義墓」。