錦小路頼言(にしきこうじよりあき) 嘉永4年〜明治17年1月1日(1851-1884)
錦小路第29代当主・子爵。祖父、長州落ち7卿の一人錦小路頼徳。東京府華族錦小路益子(明治30年5月6日歿)の父。明治17年(1884)子爵。維新後は、熊谷治安裁判所出仕。
※ 長州落ち:長州藩士らは、長州系の公卿らと孝明天皇の攘夷親征(天皇自ら出陣すること)の詔(天皇の言葉)を得ようと画策。しかし、薩摩藩士は、攘夷親征は偽勅であるに違いないと考え、会津藩士と長州排除のために同盟を結び、淀藩も加わって御所の門を封鎖。長州藩士はこれに気付き御所に駆けつけるが手遅れ、桂小五郎らの説得で戦闘を回避し、長州兵は長州系七公卿を護衛しながら京都を去り、長州へ落ちた。
錦小路在明(にしきこうじありあき) 明治2年7月9日〜明治44年11月24日(1869-1911)
錦小路第30代当主。父、唐橋在綱。唐橋在正(からはしありさだ)の弟。東京美術学校(東京芸大)卒。錦小路家は後漢霊帝の末裔と言われている。代々医者として朝廷に仕えた。22代と23代の間に空席がある。28代頼徳(よりとみ)は、尊皇攘夷派で元治元年(1864)の政変で7人の公卿と長州兵が京都から追放された事件で、三条実実らと長州へのがれ客死した。23代頼庸(よりつね:1667-1735)、24代尚秀(ひさひで:1705-1756)、25代頼尚(よりひさ:1753-1797)、26代頼理(よりただ:1767-1827、27代頼易(よりおさ:1803-1851、28代頼徳(よりとみ:1835-1864)、29代頼言(よりゆき:1852-1884)、30代益子(ますこ:?-1897.5.6)→在明(ありあき)。華族成立から爵位制定まで約15年あり、華族令が公布されたときに女当主だった錦小路家は授爵を見送り無爵位華族となったが、明治31年(1898)唐橋子爵家から在明を入夫(益子と結婚)させ爵位を授かり、これにより無爵位華族がいなくなった。子爵となった後は、東宮主事をつとめる。43歳。
錦小路頼孝(にしきこうじよりたか) 明治36年2月19日〜昭和25年6月13日(1903-1950)
貴族院議員・子爵。旧公卿家。錦小路第31代当主。本名、唐橋在孝。父、唐橋在正(五男)。京都出身。のち、錦小路在明の跡を継ぎ、明治45年(1912)改名して襲爵、子爵となる。昭和14年貴族院議員。夫人は、伯爵油小路隆成の妹昊子(平成6年11月27日歿)。47歳。長男は、錦小路頼昭(平成4年1月25日歿)。
墓は、谷中霊園 甲8号14側。正面「錦小路家之墓」。