新田純孝(にったすみたか)     嘉永4年〜昭和5年9月17日(1851-1930)

     検事。父、新田純畸(長男)。東京出身。従五位勲五等。夫人、川島稲(明治17年8月12日没)。継夫人、大串菊(大正12年4月28日没)。子に新田純興など2男3女。従五位勲五等。
※ 「埋み火はまた燃える 新田一族銘々伝」新田純弘著に詳しく載る。

新田純興(にったすみおき)     明治30年1月14日〜昭和59年8月1日(1897-1984)

    日本サッカー協会(JFA)理事。父、新田純孝(二男)。北海道函館生まれ、東京神田出身。幼名、稜威丸(みいつまる)。中学高校時にサッカーに励む。東京帝国大学工学部冶金学科卒業。三菱鉱業に入社し、佐渡鉱山に赴任。昭和9年(1934)8月三菱鉱業東京本社勤務。昭和10年(1935)から昭和36年(1961)までJFA創立から理事を務める。昭和37年のオリンピックベルリン大会に向け遠征費用募金に奔走。昭和20年(1945-1047)日本体育協会評議員、理事を務める。 昭和37年(1962)JFA常任理事。東京オリンピックの大会成功に貢献。日本サッカー史研究家でもある。昭和47年(1972)勲五等双光旭日章受章。没後の平成18年(2006)第2回日本サッカー殿堂入り。87歳。夫人は、三重県土井藤四郎の長女皎(昭和49年11月30日没、69歳)。著書:「日本サッカーのあゆみ」。

墓は、谷中霊園 乙3号8側。正面「新田家歴世墓」。新田純畸墓もある。