沼田順義(ぬまたゆきよし)/楽水堂道意    寛政4年〜嘉永2年12月17日(1792-1849)

    国学者・医師。字、道意。通称、三芳野城長。号、楽水堂。上野国群馬郡仲尾村の富農に生まれる。高崎の大熊松泉・吉田平格に医術を学び、甲斐で座光寺南屏・磯野公道に古医方を学ぶ。また江戸で林述斎に学ぶ。21歳で駿州(静岡県)清水に医を開業し、のち武蔵川越に移る。のち失明し、昼間は学問をし、夜は按摩で生活の糧を得ていたが、川越藩に召抱えられ江戸湯島に移り、盲人に与えられた最高の官名である検校(けんぎょう)に任じられ三芳野城長と名乗った。天保元年(1830)「級長戸風」を書き本居宣長・市川匡麿らの「直毘霊」や「葛花」を批判し、次いで天保4年(1833)「国意考弁妄」を書いて賀茂真淵の「国意考」を批判した。これらは、日本のあるべき姿「道」に関しての論争であり、昭和前期の「万世一系の国体」を擁護する思想や「尊皇精神」の源流にまで影響した。

墓は、正慶寺墓地(池之端2-4-22)。山門から墓地に入り、最初の通路を右に入り、右側3基目。山門に対して後ろ向き。台石「三芳野」。「楽水院殿前三芳野検校智道順義大居士」。