荻原重秀(おぎわらしげひで)    万治元年〜正徳3年9月26日(1658-1713)

    江戸時代中期の幕府勘定奉行頭。父、旗本萩原種重(次男)。通称、五左衛門のち彦次郎。延宝2年(1647)勘定役、天和3年(1683)勘定組頭、貞享4年(1687)勘定頭差添役(勘定吟味役)、元禄2年(1689)佐渡支配を兼務。この頃、金銀の産出が減少し貨幣鋳造手数料が激減、貨幣改鋳を建議し元禄8年(1695)改鋳および新旧貨幣引替主任となる。5代将軍徳川綱吉時代(在位:1678-1704)後半の財政を一手に掌握し、老中でさえ実情を知らなかった。改鋳すなわち改悪により幕府は膨大な利益をあげた。長崎貿易や酒造家への運上金を上げたり、旗本への蔵米支給を止め知行所を与えるなどの財政改革を行った。しかし、新井白石は貨幣改悪の弾劾書を6代将軍徳川家宣に上呈し、度重なる弾劾を受けて、病床中の家宣はついに折れ、正徳2年(1712)9月11日に勘定奉行を罷免され、怒って食を断ち死ぬ。嫡男の荻原乗秀には、辛うじて越前国坂井郡で采地を減らされ700石の相続が許された。一方、貨幣改悪時に贈賄などに関係した京都や江戸の商人は遠流などに処された。56歳。

荻原乗秀(おぎわらのりひで)     ?〜享保20年(?-1735)

     佐渡奉行。通称、源八郎。元禄5年(1692)徳川綱吉に拝謁。小普請奉行。享保7年(1722)町奉行。享保19年(1734)西丸御納戸頭。享保20年(1735)佐渡奉行。元文元年(1736)官舎で切腹する。法名「日到」。

墓は、長明寺墓地 (谷中5-10-10)。高地側墓地、本堂寄り通路の中程を左に入り、数基目左側。墓碑裏面には「荻原近江之守源直方之墓」と記載がある。記載から荻原直方は慶応3年(1867)没であるから、150年以上も離れている。墓碑銘は、かなり破損しているが「荻原家累代之墓」と推読できる。したがって、荻原重秀も合祀されているものと思われる(合祀と断定する資料もある)。「至誠院殿重玄日秀居士」。なお、側面には「荻原近江之守源直方妻 大河内橋助信福娘 弘化二年九月十三日卒 行年三十歳」とある。