岡田平蔵(おかだへいぞう) 天保8年3月19日〜明治7年1月15日(1837-1874)
「尾去沢銅山事件」関係者。初名、村尾銀次郎。日本橋村松町出身。日本橋品川町(室町1丁目)の金物問屋伊勢屋岡田平作の養子となる。養父は、横浜開港を機に輸入業を始め、横浜運上所の諸色目利御用達となり、平蔵が諸色目利役をしていた。慶応元年(1865)何らかの法に触れ、大坂淡路町に移る。慶応3年(1867)養父の死にともない後を継ぐ。慶応4年(1868)新政府に接近し、奥州・信州・越前・飛騨などの物産を扱い、巨利を得る。明治2年(1869)古金銀分析所を設立し、造幣寮と取引をはじめ、明治4年(1871)造幣寮分析御用となる。益田孝を番頭とし、大蔵大輔の井上馨に接近し用人となり、益田孝を造幣権頭にする。明治5年(1872)東京古金銀分析所を設立し、陸軍省と取引を始める。一方、この頃東北地方の尾去沢・阿仁・院内などの鉱山の経営を始める。のちに、尾去沢(おさりざわ)鉱山の払下げ疑惑、「尾去沢銅山事件」が起きる。明治7年(1874)井上馨・エドワード・フィッシャー商会らと「岡田組」を設立したが、銀座煉瓦街で死体となって発見される。37歳。岡田平太郎は実子、岡田平馬は義弟、岡田平太は平馬の子。
墓は、谷中霊園 甲4号2側。さくら通りから2基目。八角柱形。正面「岡田平蔵之墓」。大阪城内豊国神社境内に招魂碑がある。