大炊御門頼国(おおいのみかど よりくに) 天正5年〜慶長18年5月25日(1577-1613>
「猪野熊事件」に関わった公卿。父、権大納言大炊御門経頼。弟は、左大臣大炊御門経孝。主に後陽成天皇の朝廷に仕えた。天正6年(1578)正三位。慶長13年(1608)他の公家らと共に官女と密会乱交するという「猪野熊事件」を起こす。後陽成天皇から勘当を受け、慶長14年(1609)に硫黄島に流され、同地で没する。正二位大納言。37歳。
※ 大炊御門家は、清華家の家格を有する公家。藤原北家師実流。平安時代末期摂政関白藤原師実の子経実(1068年-1131年)を祖とする。家業は筆道・和歌・笛・装束。大炊御門幾麿(いくまろ)は侯爵だが当墓には入っていない。
墓は、寛永寺谷中墓地(凌雲院墓地)。乙8号6側向いを入る。卵形の黒い大きな「凌雲院累代之墓」の前の列。大炊御門頼国と昭和12年以降の末裔が合祀されている。その他は京都の墓所にある。「崇光院殿開国顕正大居士」。
墓誌の没年が「延宝元年」となっている。慶長18年は「癸丑」で、延宝元年(1673)も「癸丑」であることから、錯覚を起こしたものと思われる。