大岡硯海(おおおかけんかい)/大岡育造    安政3年8月21日〜昭和3年1月27日(1856-1928)

    政治家。長門国小串村(山口県)出身。父、医師大岡尚斎(長男)。名、育造。従三位。明治6年(1873)長崎医学校に入学。同校廃校で明治8年(1875)上京し講法学舎および司法省法律学校に学ぶ。明治13年試験に合格し代言人(弁護士となる。明治23年(1890)「江戸新聞」を買収し「中央新聞」と改め、社長となる。同年帝国議会開設に際し山口県から立ち衆議院議員(当選13回)、のち立憲政友会の総務となる。第一次山本権兵衛内閣の文部大臣、衆議院議長(3回)、東京市会議長などを歴任。その間、明治32年(1899)欧米を漫遊。退官後は政友会の長老として活躍。詩文・書を残す。ちなみに、明治31年(1898)11月25日の読売新聞に、「◎名士の車より落るもの多し(馬車人力車の不祥事多発の年)」と言う記事の中に、「大岡硯海氏は新車の一頭立て馬車で山下町辺の堀に落ちて馬は即死、御者は重傷」というものがある。73歳。従三位勲一等。生没年については、異なる資料があるが、墓誌にしたがった。長男、大岡賛造(1883-1941)。二男、大岡二郎(1887-1954)。

墓は、甲9号1側。了ごん寺側飛び地。正面「大岡家之墓」。「文靖院釈硯海忠粛居士」。