大薩摩主膳太夫(おおさつましゅぜんだゆう)    ?〜宝暦9年(?-1759)

    江戸の古浄瑠璃の一である「大薩摩節」を創始。水戸出身。通称、柳家芝源助。初名、薩摩文五郎。別号、大薩摩外記藤原直勝。江戸で2代目薩摩淨雲の弟子の薩摩外記に入門。大薩摩主膳太夫は、「矢の根」で用いられている浄瑠璃「大薩摩節」を語る太夫。師没後、薩摩の宗家を継承し大薩摩の流祖と言われている。薩摩文五郎時代の正徳2年(1712)に江戸にて操座を興行し、享保年間の初め頃(1720頃)から大薩摩主膳太夫を名乗り一派を起こし、師匠が創始した外記節に替わり芝居に出演し、勇壮豪快な曲調で、歌舞伎荒事(あらごと)の伴奏音楽として用いられた、声量の豊かさにて大好評を博した。しかし、三代にして衰退し、成立当初より三味線の演奏を長唄三味線方に託していたことが多かった縁にて、文政9年(1826)に4世杵屋三郎助(後の10世杵屋六左衛門)に家元を預け、以後長唄に併合され現在に至っている。 なお、外記節・大薩摩節・文弥節・一中節・豊後節・常磐津・新内・清元節など、これらの語り手はみな太夫と呼ばれる。

大薩摩文太夫(おおさつまぶんだゆう)     ?〜天保13年5月24日(?-1842)

     大薩摩3代目の太夫。文政天保時代の名人。はじめ富士田勘右衛門と名乗る。当時の江戸三座といわれた市村座・中村座・森田座の人気を大薩摩で独占したといわれる。3代目文太夫の名声が高過ぎ、3代目没後は後継者がなく、大薩摩は廃絶してしまった。

墓地は、常在寺墓地。山門の左側。墓碑は2基あるが、一方は、表面が落ち判読不明。しかし、もう一方の墓碑には宝暦9年の記載がなく主膳太夫の墓は、判読不明の方と想像するのみ。崩れていない一方の墓碑は、俗名は無いが没年から推して3代目大薩摩文太夫の墓(合祀)と思われる。正面「恩玄院道咸日量信士/思量院妙咸日信女/清心院道喜信士/歓喜院妙道信女」。