大沢常太郎(おおさわつねたろう)     明治26年〜?(1893-?)

     我が国初の青果小売商組合を作った人。東京市会議員・全国青物同業組合長。父、大沢仙蔵(長男)。東京出身。15歳で神田羽田商店で青物商を修得。19歳で独立。大正7年(1918)米騒動をきっかけに、投機的な高値を防止するため当時は主従関係だった問屋と小売商が公設市場をつくるという動きになり、価格交渉が決裂したときに神田では、青果物を買わないというボイコットができるように小売商が団結した。その結果大正10年(1921)ころ組合ができ小売商の地位が確立された。このリーダーが大沢常太郎だった。台東区根岸に住んだ。東京市青物同業組合長・東京都青果物商業協同組合理事長・東京青果信用組合理事長・全国青果小売商組合連合会会長・六大都市青果小売商組合連合会会長・東京商工会議所常議員・東京実業連合会理事・東京青果小売商組合会長。大東建設社長・大沢プレス製作所社長。東京市議会議員。著書:八百屋半生伝「何苦礎一代(なにくそいちだい)」、「韓国青果業界駆けある記」、「アメリカ視察」、「ソ連・ヨーロッパ駈けある記」、「野菜と果物の商売読本」。

墓は、妙行寺墓地(谷中1-7-37)。山門を入り、鐘楼裏の通路を行き、突き当り近くの左側。ご住職にご案内頂いたものだが、分骨墓のため墓誌には記載がない。正面「大沢家累代之墓」。