太田道灌(おおたどうかん)    永享4年〜文明18年(1432-1486)

    室町後期の関東の武将。鎌倉の扇谷上杉氏の家宰。名、資長。清和天皇の血を引く。4代先には徳川家康側室の「お勝」がいる。相模出身。父、太田資清。長禄1年(1457)江戸城を築いた。武蔵・相模の有力武将となり、扇谷家を山内家に匹敵する程にした。太田道灌の有名なエピソードに次のような話しがある。狩猟中に雨に遭って雨宿りした家で雨具の蓑(みの)を借りようとした道灌に、その家の娘が黙って山吹の花を差し出した。その意味は、後醍醐天皇の皇子の懐良(かねなか)親王の古歌である
   「七重八重花は咲けども実のひとつだに無きぞ悲しき」
に掛けて「貸すような蓑はありません」というパフォーマンスをした。道灌は、元歌を知らなくて娘の行動を理解できなかった。道灌は、歌道に暗いことを恥じて和歌の道に精進し、一流の文化人となった。建仁寺の僧や万里集九らを江戸城に招いて歌会を催したという。文明18年(1486)相模国糟屋(現在の神奈川県伊勢原市)の主君の上杉定正邸に誘い出され殺害された。