大田錦城(おおたきんじょう)/太田錦城    明和2年〜文政8年4月23日(1765-1825)

    漢学者(折衷学派)。名、元貞。字、公幹。通称、才佐。号、錦城・多稼老人・春草翁・柳橋釣叟・矢倉潜夫。父、加賀大聖寺の医師・本草学者大田玄覚。京都の皆川淇園(きえん)・江戸の山本北山に師事するが当時の儒学者経ちの学説を批判し殆ど独学で儒学を学び、経学をもって漢代の学は君詁、宋学は義理、清代の学は考証に長ずと論じ、清朝の考証学を採用し自己独特の学問を確立して我が国考証学の先駆となった。幕府医官多紀佳山に認められ清国に渡る。江戸で教授、のち三河国吉田藩に仕えた。晩年は、吉田・加賀候に仕える。また、良寛の記録を残したのは太田錦城であり、文化10年(1813)「病間雑抄」を著している。弟子に、塘它山・海保漁村・加藤善庵らがいる。著:「梧窓漫筆」、「周易詳説」、「易解」、「錦城文集」、「春草堂随筆」など多数。

墓は、一乗寺。脇門横。都指定史跡。