太田翠陰(おおたすいいん)    延宝4年〜宝暦4年閏2月16日(1676-1754)

    秋山藩儒家。名、重厚のち成章。字、子達。号、翠陰。通称、治太夫・彦八郎・正五郎・最後に丹下。父、仙石家藩士太田彦太夫重成(二男)。長野出身。19歳で江戸に出て林鳳岡信篤大学頭の門人となり10年間程朱学を修行する。元禄16年(1703)信篤の推挙により儒をもって出羽久保田藩の第3代藩主佐竹義処(さたけよしずみ:1637-1703)公の師範役となり、第4代藩主佐竹義格(さたけよしただ:1695-1715)・第5代藩主佐竹義峰(さたけよしみね:1690-1749)・佐竹義堅(さたけよしかた:1692-1742)・第6代藩主佐竹義真(さたけよしまさ:1728-1753)・第7代藩主佐竹義明(さたけよしはる:1723-1758)と50年間に亙って指導する。元文4年(1739)用人格、宝暦2年(1752)藩の重臣となる。79歳。著書:「太田成章上書」、「群玉宝鑑」、「太田成章覚書 」、「詩文遺稿」、「書庫記」、「画松記」。

 
墓は、玉林寺墓地(谷中1-7-15)。墓地入口の階段上より右奥方向。松の木のある「今澤家之墓」の裏手。正面「翠陰先生太田府君墓」。墓碑周りに略歴あり。「本覚院正山泰道居士」。