大屋斧次郎(おおやおのじろう)/大屋祐義(おおやすけよし)     天保5年11月〜明治12年10月17日(1834-1879)

     上野館林藩士のち裁判官。初称、斧次郎。名、祐義。号、東寧。父、館林藩中村数右衛門(二男)。群馬県館林出身。藩主秋元志朝の縁戚長州藩と幕府との紛議が起こると、同志9人と髪を切って死を決し、開国論者家老岡谷瑳磨介を責めて退陣させる。戊辰戦争時、大村益次郎の推薦で軍監。彰義隊戦争では、神奈川方面を分担。明治初期横浜県少参事。明治5年(1872)名村泰蔵・沼間守一・大東義轍・三島毅・河口定義・川西徳化らと司法裁判所7等出仕となり、10回におよぶ建白書を提出。「建白屋」の異名を持つ。西郷隆盛の知遇を得ていたが、彼の死を知ると、憂憤し自著を宮内省に献じ割腹自殺する。46歳。著書;「永世特立論」、「訐姦志」。
※ エピソード:横浜県少参事の時代に三浦半島を訪れ、郷学校の開設を強く説いた。大屋の働きかけに応えて浦賀の町は、東浦賀の乗誓寺に東岸郷学校、西浦賀の叶神社に西岸郷学校を開設した。

墓は、谷中霊園 甲1号5側。当ブロック西端。正面「大屋祐義之墓」。