輪王寺宮(りんのうじのみや)

 輪王寺宮御門跡(もんぜき)は、世襲ではなく、「輪王寺宮」という宮家のひとつで、身分は僧侶でありながら皇族という2面性を持つ。そのため、”坊官”と”院家”という側近がいた。”坊官”は、宮家にお仕えするので「士」とされ、”院家”は、御門跡にお仕えするので「僧侶」とされていた。墓地には、下記のお墓や塔がある。下記以外にもあるものと思われる。

墓は、輪王寺開山堂左側(非公開)(上野公園14-5)。国立博物館の東側。

写真左から、公紹親王墓・舜仁親王墓・公寛親王墓。京都府京都市山科区安朱稲荷山町毘沙門堂内が本墓と思われる。

守澄法親王     寛永11年閏7月11日〜延宝8年5月16日(1634-1680)

第1世輪王寺宮。幼名、今宮。父、後水尾天皇(第6皇子)。母、園光子(壬生院)。寛永15年(1638)上野寛永寺の開山天海の奏請により日光山門主と定められる。正保元年(1644)10月2日親王宣下。名は幸教。同16日青蓮院にて得度。法諱は尊敬。同4年9月14日天海を継ぎ寛永寺へ入り、承応3年(1654)11月11日寛永寺2世となる。明暦元年(1655)10月8日天台座主に任じられ、11月26日後水尾天皇より輪王寺の号を賜る。これより寛永寺住職は輪王寺宮を称することとなる。同年12月座主を辞す。延宝元年(1673)5月20日法諱を守澄と改める。

天真法親王      寛文4年〜元禄3年(1664?-1690)

第2世輪王寺宮。江戸初期の親王。日光山輪王寺第2代門跡。名は幸智(幸知)、幼称、益宮。号、体道。法諱、守全。日光新宮と呼ばれる。父、後西天皇(第5皇子)。輪王寺宮尊敬法親王の法嗣。東福門院の養子となり親王宣下し、近江滋賀院で守澄親王のもとで得度。東叡山輪王寺に入り、一品に叙せられる。画を得意とした。27才。

公弁法親王(こうべんほっしんのう)(髪爪塔)     寛文9年8月21日〜正徳6年4月17日(1669-1716)

第3世輪王寺宮。号、脩礼・玄堂。隠棲後に大明院と称す。父、後西天皇(第6皇子)。貴宮秀憲親王。出家後、親王宣下を受け法親王となる。毘沙門堂門跡のほか日光輪王寺門跡・東叡山寛永寺貫首・東叡山輪王寺門跡・天台座主を兼任。位は一品、准三宮。

公寛親王(こうかんしんのう)     元禄10年2月21日〜元文3年3月15日(1697-1738)

第4世輪王寺宮。幼名、三宮。俗名、有定。号、崇保院。父、東山天皇(第3皇子)。母、冷泉為経の娘。宝永5年(1708)親王宣下をうけ、近江(滋賀県)円満院で出家。法緯は覚尊。三山検校(けんぎょう)・園城寺(おんじょうじ)長吏を経て正徳3年(1714)12月18日公弁法親王の付弟となる。正徳4年2月13日(1714)公寛と改名。享保元年(1716)東叡山に入室し輪王寺門跡となる。享保3年(1718)天台座主となり、享保16年(1731)再任。元文3年(1738)3月9日辞職。42歳。 戒名、「崇保院宮」。

公啓親王(こうけいしんのう)     享保17年3月18日〜明和9年7月16日(1732-1772)

第6世輪王寺宮。幼称、俊宮。俗名、寛義。父、直仁(なおひと)親王(第1王子)。母、女房讃岐(伊藤氏)。東山天皇皇孫。 中御門(なかみかど)天皇の養子。享保20年(1735)曼殊院に入り、寛保3年(1743)親王宣下、翌年得度。宝暦2年(1752)輪王寺門跡。宝暦12年(1762)天台座主。41歳。

公璋親王(こうしょうしんのう)     宝暦10年2月14日〜安永5年7月10日(1760-1776)

幼名、方宮(みてのみや)。保和親王。父、閑院宮典仁親王(かんいんのみや すけひとしんのう)(第3王子)。母、女房りて。公啓親王孫。 東山天皇皇曾孫。安永元年(1772)11月27日親王宣下。得度、公顯親王のち公璋親王。

公遵法親王(こうじゅんほうしんのう)(髪爪塔)     享保7年1月3日〜天明8年3月25日(1722-1788)

第5世・第7世輪王寺宮。幼名、二宮(にのみや)。名、保良親王。号、随自意院。別称、日光新宮。父、中御門天皇(第2皇子)。母、清水谷石子。資、公寛法親王。享保15年(1731)12月22日親王宣下。享保16年(1731)9月18日毘沙門堂入室・得度、公遵と改名。享保19年(1734)5月8日輪王寺門跡付弟。元文3年(1737)3月9日輪王寺門跡継承。元文5年(1740)3月16日一品に昇格。延享2年(1745)5月26日天台座主。寛延2年(1749)7月13日准三宮。宝暦2年(1752)8月21日隠居し随自意院宮と称す。明和9年(1772)9月22日輪王寺門跡再任。安永9年(1780)3月21日隠居、随宜楽院宮と称す。

公延親王(こうえんしんのう)(髪爪塔)     宝暦12年11月4日〜享和3年5月27日(1762-1803)

第8世輪王寺宮。幼名、良宮(よしのみや)。父、閑院宮典仁親王(かんいんのみや すけひとしんのう)(第4王子)。母、女房紫雲院 。東山天皇皇曾孫。のち輪王寺宮。一品天台座主。

公澄親王(こうちょうしんのう)(髪爪塔)     安永5年10月〜文政11年8月7日(1776-1828)

第9世輪王寺宮。幼称、佳宮(よしのみや)。俗名、弘道。号、歓喜心院。後伏見天皇十七世皇孫。 父、邦頼親王(第2王子)。後桃園天皇の養子。寛政元年(1789)公延親王の付弟となり、同年親王宣下をうけ出家し寛永寺に入る。寛政3年(1791)輪王寺門跡。寛政11年(1799)天台座主(ざす)。53歳。

舜仁親王(しゅんにんしんのう)     寛政元年2月1日〜天保14年9月11日(1789-1843)

第10世輪王寺宮。名、正道。父、有栖川宮織仁(ありすがわのみやおりひと)親王(第4王子)。霊元天皇皇曾孫。文化5年(1808)光格天皇の養子として親王宣下をうけ、正道(まさみち)の名を賜う。ついで剃髪して戒を尊真入道親王から受け、法名を公猷と称す。のち天台座主となり法名を舜仁とあらためる。55歳。

公紹親王(こうしょうしんのう)     文化12年9月12日〜弘化3年10月19日(1815-1846)

第11世輪王寺宮。幼称、菊宮。俗名、彰信(あきこと)。父、韶仁(つなひと)親王(有栖川宮の7男)(第3王子)。母、平朝臣勝子。女房、千里(豊島民部権少輔平朝臣勝文の養女)光格太上天皇の養子。霊元天皇皇玄孫。 光格天皇の養子。養母、宣子女王(實枝宮:韶仁親王の御息所:美仁親王(閑院宮)の5女)。文政7年(1824)4月24日舜仁親王(織仁親王(有栖川宮の4男)の附弟となる。同日、光格上皇の養子となる。文政8年(1825)2月2日義丸(いさまる)と改名。文政10年(1827)3月11日輪王寺河原里坊に移る。同年3月24日親王宣下に先立ち、彰信(安幾古登)を賜り改名。同25日親王宣下。同年4月25日輪王寺河原里坊に入寺・得度。法諱「公紹」。同6月寛永寺に入り、天保6年(1835)正月22日一品に叙せらる。天保13年(1842)9月29日京で天台座主に補せらる。天保14年(1843)9月19日舜仁親王の"隱居"(実は11日死亡)により輪王寺門跡となる。弘化3年(1846)10月18日輪王寺門跡を辞し、同19日"薨"と発表。32歳。

慈性親王(じしょうしんのう)     文化10年8月26日〜慶応3年12月7日(1813-1868)

第12世輪王寺宮。幼称、精宮。俗名、明道。法号、大楽王院。父、有栖川宮韶仁(ありすがわのみやつなひと)親王(第2王子)。霊元天皇皇玄孫。 天台宗大覚寺に入り、文政5年(1822)光格天皇の養子となり親王宣下ののち出家。東大寺別当・東叡山輪王寺門跡を経て、文久2年(1862)天台座主。位は一品・准三宮。55歳。

北白川宮能久親王(よしひさ しんのう)/公現法親王 (髪塔)     弘化4年2月16日〜明治28年10月28日(1847-1895)

第13世輪王寺宮。幼名、満宮(みつのみや)。後伏見天皇十九世皇孫。父、伏見宮邦家親王(第9王子)。生母、堀内信子。小松宮様の弟宮。最後の輪王寺宮として知られる。慶応3年(1867年)5月京から上野の寛永寺に入り、同月慈性入道親王の隠退に伴い、寛永寺貫主輪王寺門跡を継承した。院号は「鎮護王院宮」、公現法親王とも呼ばれる。上野戦争で寛永寺に立て篭もった彰義隊に擁立されて戦争に巻き込まれ、敗北して東北に逃避し、仙台藩に身を寄せ、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された。明治元年(1868年)9月仙台藩は新政府軍に降伏。明治2年(1869年)9月処分を解かれ、明治3年(1870年)10月に伏見宮家に復帰。明治天皇の命により還俗し、幼名の伏見満宮(ふしみ みつのみや)と呼ばれる。明治3年(1870年)12月プロイセンに留学。同国歩兵・砲兵聯隊、参謀学校等で兵学を学ぶ。留学中の明治5年(1872)3月弟北白川宮智成親王の遺言により北白川宮家を相続。明治9年(1876)12月ドイツの貴族の未亡人ベルタと婚約を発表、明治政府は許可せずに帰国を命じる。明治10年(1877)7月に帰国し、近衛砲兵聯隊御隊附。岩倉具視らの説得で婚約を破棄させられ京都の謹慎となる。その後は陸軍に籍を置く。明治17年(1884)陸軍少将。明治25年(1892)陸軍中将。獨逸学協会初代総裁、大日本農会初代総裁を歴任。明治26年(1893)11月第4師団長。明治28年(1895)台湾征討近衛師団長として出征。現地でマラリアに罹り薨去。しかし死去が秘匿されたまま遺体は日本に運ばれ、陸軍大将に昇進が発表され、その後に薨去が告示され国葬になる。49歳。

※ 皇族として初めての外地での殉職者となったため、豊島岡墓地に葬られた。しかし、敗戦後能久親王を祀った台湾の60の神社はすべて破却されたため、現在は靖国神社にて合祀されている。

大照月朗     ?〜昭和元年(?-1926)

輪王寺門跡。寛永寺貫主。大僧正。