幕末維新期の政治家。安政1年(1854)江戸で藩主島津斉彬(なりあきら)に認められ、御庭方役として国事に奔走。その後諸事情により安政6年(1859)に奄美大島に、文久2年(1862)に沖永良部島へ流罪となる。元治1年(1864)許されて上洛、大久保利通らと結んで禁門の変や長州戦争で幕府側の指導者として活躍。その後、藩論を転換し尊王討幕となった。明治1年(1868)王政復古のクーデターに成功した。しかし、その後大久保利通ら政府との意見対立があり辞職して鹿児島に帰った。多くの士族が西郷に同調、ついに明治10年(1877)盟主にかつぎあげられ西南戦争を起こした。日本最後の内戦でもある。王政復古に功績がありながら銅像が皇居前に建てられなかったのは、西南戦争で天皇に弓を引いたことによる。