榊原職直(さかきばらもとなお)    天正4年〜慶安元年9月1日(1576-1648)

    島原の乱時の長崎奉行。名、半平・太郎八・小源太、のち左衛門佐。父、高松花房家花房助兵衛職之(はなぶさもとゆき)(二男)。母、宇喜多直家の家臣額田三河守の娘。慶長元年(1596)徳川家康に拝謁し、命により屋号を榊原とする。慶長3年(1598)徳川秀忠に付属し、小姓となる。慶長4年(1599)榊原康政の養子となる。慶長5年(1577)上杉景勝征伐に出陣。慶長19年(1591)大坂御陣に父職之・兄職則と共に供奉。元和元年の役に出陣。寛永2年(1625)1800石を知行し、御徒頭となる。寛永9年(1632)御書院番頭、従五位下飛騨守。寛永10年(1633)2500石。寛永11年5月18日〜寛永15年6月29日(1634-1638)長崎奉行。宗門改および鎖国令の実施にあたり、唐貿易を長崎1港に限り、外国渡航を禁じ、近在の混血児287人を追放、ポルトガル人を出島に移した。島原の乱には鍋島直茂の軍監史として参加し、寛永15年(1638)5月職直の子職信が鍋島勢と共に城内に突入して幕府軍の総攻撃の口火を切るが、軍令違反で戦後閉門となる。翌年許されて、寛永19年(1642)御先鉄砲頭。正保3年(1646)近江水口城番となった。63歳。

榊原職信(さかきばらもとのぶ)     元和8年〜寛文12年11月13日(1622-1672)

徳川家臣。名、小源太・左衛門。父、榊原職直。母、難波氏。寛永4年(1627)7歳ではじめて将軍徳川秀忠に拝謁。寛永14年(1637)父と共に長崎に赴任。のち「島原の乱」にて寛文15年(1638)他軍に先立ち城中に入り功をなす。正保元年(1644)御小姓組。慶安元年(1648)遺跡を継ぎ、2000石を知行。うち500石を弟八左衛門職員に分け与える。慶安2年(1649)御先弓頭。万治3年(1660)御持弓頭。寛文11年(1671)御槍奉行。妻は、安藤彦四郎直政の娘。

※ 島原の乱: 寛永14年10月25日に勃発、寛永15年2月28日に終結した、日本歴史上最大規模の一揆。天草四郎の話で有名。

墓は、天王寺墓地。白根専一墓の隣り。中央にあるもの。「通性院殿前従五位下道空日華居士」。子の榊原職信墓は、左隅にある。「浄光院殿玄融日性霊」。