桜井純造(さくらいじゅんぞう)    文政9年〜明治17年11月10日(1826-1884)

    宮内大書記官。名、敏徳。字、子卿。通称、純造。号、竹巌。長野県出身。信濃上田藩士。はじめ藩校に学ぶ。下曽根金三郎に師事し砲術を学ぶ。浦賀探索外事となり、米艦隊が浦賀に来航時、八木剛輔とともに応接所で情報を得て藩主に伝えた。藩の操練取締となり、大小銃器製造を担当。「鐘美館」館長。明治7年(1874)宮内省6等に出仕。以後、宮内少丞・宮内少書記官・宮内権大書記官・内匠課長を経て皇居御造営事務局4等出仕。正五位勲六等。単光旭日章受章。59歳。

墓は、瑞輪寺墓地(谷中4-2-5)。山門そばの通路を行き、山門横辺り。正面「宮内大書記官正五位勲六等桜井君之墓」。大きな顕彰碑がある。