三条西季知(さんじょうにし すえとも)    文化8年2月26日〜明治13年8月24日(1811-1880)

    三条西家幕末の15代当主・堂上公家(大臣家)。尊皇攘夷派公家(七卿都落ち)の一人。新政府の参与。号、蓬翁。父、中納言三条西実勲(さねいそ)。母は、三条実起(さねおき)の長女。明治天皇の侍従となり、和歌師範として有名。文政7年(1824)閏8月侍従となり、のち右近衛権少将・同権中将を歴任し、嘉永3年(1850)6月参議に昇進、11月従三位に叙され、安政4年(1857)5月権中納言、文久元年(1861)正月正二位となる。文久2年(1862)5月国事書記御用掛、12月には議奏加勢・国事御用掛となる。国事に奔走、庶政を刷新して速やかに攘夷の国策を決定すべしと建言したが、文久3年(1863)大和行幸が中止となり長州藩の堺町門警護をとかれるという政変により同年8月18日参内・外出・面会の禁止を命ぜられ、翌19日沢宣嘉・東久世通禧・四条高隆謌・錦小路頼徳・壬生基修・権中納言三条実美ら六卿と共に西下し、官位を奪われた。その後禁門の変につづく長州征討、長州藩の降伏などがあり、筑前大宰府に追放された。滞留3年王政復古の令とともに官位の回復と入京の許可を得て、慶応3年(1867)12月実美ら四卿と共に上洛、翌年正月御前詰となり、2月参与、8月権大納言(旧制)となる。明治3年(1870)12月辞官隠居。明治7年(1874)正月また神宮祭主、大教正に任じられる。また、明治天皇の近習侍従となり歌道の指導に当たり、麝香の間祗候となる。明治13年(1880)正二位勲二等に叙せられた。70歳

「けふここに湯浴みをすればむらきもの心のあかも残らざりけり」

三条西公允(さんじょうにし きんあえ)     天保12年〜明治37年6月13日(1841-1904)

     三条西家16代当主・新潟県知事・伯爵。父、三条西季知(長男)。幼名、徳丸。京都山城出身。宮内省歌道御用掛。安政勤王88廷人の一人。安政4年(1857)左近衛権少将。安政5年(1858)外交措置幕府委任の勅答案に反対し、有志公家と共に九条関白邸に列参する。慶応3年(1867)孝明天皇諡号宣下の儀の山陵使。明治元年(1968)皇太后宮権亮・侍従。明治2年(1869-1870)10月3日水原県知事。明治3年(1870)新潟県知事。明治17年(1884)伯爵・大鳥神社大宮司。明治19年(1886)家名を西三条と改称(大正3年に復する)。明治21年(1888)正二位奏任二等下勲五等瑞宝章。64歳。

三条西信子(さんじょうにしのぶこ)     明治37年〜昭和20年11月8日(1904-1945)

     三条西公正夫人。父、久邇宮邦彦王(第二王女)。昭和天皇の皇后 香淳皇后良子(こうじゅんこうごうながこ:1903-2000)の妹。大谷智子(おおたにさとこ:1906-1989)の姉。東京出身。大日本連合会婦人会会長。国民精神総動員本部参与。41歳。 三条西実義(さんじょうにしさねよし)     慶応2年〜昭和24年5月28日(1866-1949)

     三条西家17代当主・伯爵。正二位勲一等。父、男爵風早公紀。御家流一門である風早家からの養子。のち三条西公允の養子。京都出身。明治32年(1899)御製取調掛。明治37年(1904)先代爵位を襲封。明治41年(1908)式部官。明治42年(1909)皇太神宮式年遷宮神嘉殿行幸に供奉。大正7年(1918)姓を改める。大正11年(1922)神宮関係施設調査委員。御歌所修候等歴任。伊勢神宮大宮司。大正15年(1926)依願退職。昭和15年(1940)4月27日勲一等瑞宝章。

三条西公正(さんじょうにしきんおさ)     明治34年1月8日〜昭和59年1月25日(1901-1984)

     三条西家18代当主・文学博士・香道家。父、三条西家実義(二男)。東京出身。号、尭山(ぎょうざん)。東京帝国大学卒業。宮内省図書寮編集官。東京帝室博物館監査官。香道御家流家元。実践女子大学部教授・名誉教授。昭和22年(1947)御家流宗家を継ぐ。有職・服飾史に通じ、書をよくした。日本香道協会会長。正四位勲三等。83歳。著書:香道関係多数、「組香の鑑賞」、「概観日本服装史」、また「万葉集」・「栄華物語」の現代語訳で知られる。夫人は、香淳皇后の妹にあたる久邇宮家の信子女王。後継は、三条西実謙。

墓は、谷中霊園 乙12号1側。