佐々木只三郎(ささきたださぶろう)/佐々木高城    天保4年〜慶応4年1月12日(1833-1868)

    清川八郎を暗殺した浪士組のメンバー。通称、只三郎。初名、泰昌。父、佐々木源八(三男)。会津三傑の一人手代木勝任の弟で、文武の諸術に優れていた。剣の流派の「会津五流」の一つの「神道精武流」を藩の師範役羽嶋源太に学び幕府講武所の剣術師範を勤めた。また槍術を沖津庄之助に師事。さらに手裏剣の名人でもある。一方、鈴木大之進に師事し和歌をも学んだ。万延元年(1860)江戸に出府。親戚の旗本佐々木矢太夫の養子となり、家督を継いで浅草堂前の組屋敷に住んだ。文久2年(1862)浪士組結成に伴い京へ赴き京都見廻組頭も務めた。文久3年(1863)老中小笠原長行の密旨を受け、麻布一の橋で清川八郎を暗殺する。慶応3年(1867)近江屋で坂本龍馬・中岡慎太郎も斬ったとも言われる。鳥羽伏見の戦いで重傷を負い明治元年(1868)和歌山で歿す。36歳。

歌碑は、宗林寺墓地(谷中3-10-22)。鐘楼側墓地。碑の裏側には何の記録もなく、誰がいつ建立したかも不明。戒名は「賢浄院殿義岳亮雄居士」。墓は、和歌山県紀三井寺に埋葬されたが、のちに福島県会津若松市「武家屋敷」内に改葬された。

     くちはてて かばねのうえに草むさば 我が大君の駒にかはまし