佐藤愛麿(さとうよしまろ)    安政4年3月〜昭和9年1月11日(1857-1934)

    明治大正期の外交官。父、津軽藩士中山逸郎(二男)。のち、陸奥弘前藩勘定奉行だった佐藤清江(さとうせいこう:1834-1904)の養子となる。明治14年(1881)米国デボー大学を卒業。「バチュラー オブ アーツ」の称号を受ける。明治19年(1886)公使館書記官となり、外務書記官・公使館一等書記官。明治33年(1900)メキシコ駐在弁理公使。明治39年(1906)オランダ駐在特命全権公使。明治41年(1908)万国平和会議全権。大正3年(1914)特命全権大使としてオーストリア・ハンガリーに駐在したが、欧州大戦のため帰国。のち、米国駐在大使となり大正7年(1918)待命を受け帰国。のち、宮中顧問官となり伏見宮家別当。正三位勲一等。養子に佐藤尚武がいる。77歳。

佐藤尚武(さとうなおたけ)    明治15年10月30日〜昭和46年12月18日(1882-1971)

    外交官・政治家。大阪出身。旧姓、田中。父、津軽藩士田中坤六(二男)。養父、駐オーストリア・ハンガリー帝国大使や駐アメリカ合衆国大使を歴任した佐藤愛麿。正則中学校(正則高等学校)卒。明治37年(1904)東京高等商業学校(現一橋大学)全科卒業。在学中の明治38年(1905)外交官及び領事官試験に合格したため同専攻部領事科を中退し、外務省に出仕。大正8年(1919)スイス公使館1等書記官。大正10年(1921)フランス大使館参事官。大正12年(1923)ポーランド公使。大正14年(1925)駐ソ臨時大使として在ソ連日本大使館開設に尽力。大正12年(1923)駐ポーランド公使。大正14年(1925)駐ソ臨時大使として在ソ連日本大使館開設。昭和2年(1927)国際連盟帝国事務局長、ジュネーブ軍縮会議、ロンドン軍縮会議に出席。昭和5年(1930)12月ロンドン海軍軍縮会議全権特命大使。昭和5年(1930)駐ベルギー大使。昭和6年(1931)勲一等瑞宝章。昭和8年(1933)国際連盟総会で、松岡洋右らと満洲国否認決議に抗議して退場をする。昭和8年(1933)駐フランス大使・ジュネーブ一般軍縮会議全権大使。昭和9年(1934)旭日大綬章。昭和12年(1937)林内閣外務大臣。昭和15年(1940)駐イタリア大使。昭和17年(1942)ソ連による対日宣戦布告当時の駐ソ連大使。戦争の不利を察知し連合国側の条件を容認し早期終結を東郷外務大臣に長文の電報で説得するも無視されソ連の参戦を招き敗戦。抑留生活となり昭和21年(1946)5月帰国、同年枢密顧問官。昭和22年(1947)参議院議員。昭和24年(1949-1953)参議院議長。昭和28年(1953)伊勢神宮奉賛会初代会長。没後旭日桐花大綬章授章。89歳。

墓は、谷中霊園 乙10号11側。道路に面する。正面「佐藤家墓」。