里見勝蔵(さとみかつぞう)     明治28年〜昭和56年5月13日(1895-1981)

    洋画家。京都出身。大正2年(1913)関西美術院に入り、鹿子木孟郎の指導を受ける。のち東京美術学校に入り、安井曾太郎を尊敬、セザンヌに傾倒する。大正6年(1917)「職工」を二科展に出品、第4回院展に「下浜の風景」を出品し初入選。大正8年(1919)東京美術学校卒業。大正10年(1921)パリに行き、フォービズム全盛期のときヴラマンクに師事。フランスでは、前田寛治・小島善太郎らと知り合う。また、佐伯祐三をヴラマンクに紹介したことでも知られる。大正13年(1924)ルオーを紹介。展評を「中央美術」に紹介。大正14年(1925)帰国。「マリーヌの記念」など7点の渡欧作品を二科展に出品し、「樗牛賞」となる。昭和元年(1926)「1930年協会」の結成に参加。昭和2年(1927)「裸の女」で二科賞。昭和5年(1930)二科会会員となるが脱会。前田寛治・小島善太郎・佐伯祐三・木下孝則らと「1970年協会」を設立、渡欧作品40点を出品。フォービズムの影響を受けた画風をもって当時の画壇に影響を与えた。昭和4年(1929)東京に移住。昭和5年(1930)児島善三郎・林武・三岸好太郎らと「独立美術協会」を設立。「女」など8点を出品、昭和12年(1937)「独立美術協会」に第7回まで出品し退会、無所属となる。昭和29年(1954)「国画会」の会員となり、昭和56年(1981)まで出品。この間、再び渡欧。昭和43年(1968)「里見勝蔵第1回自選展」を日本橋三越で開催。鎌倉市にて没する。作品:「異端者の奇跡」、「ヴラマンク」、「赤と緑」、「画境」など。85歳。

墓は、寛永寺谷中墓地。津山松平家墓域入り口前左側。正面「法寿院彩誉勝願居士/珠琳院清誉浄智大姉」。