佐善雪渓(さぜんせっけい) 明歴2年12月17日〜延享2年5月24日(1656-1745)
津藩の儒学者。名、元恭。通称、新九郎。小字、二郎三郎。号、雪渓。父、佐善又左衛門。鳥取出身。鳥取藩士。京都に遊学し経史を修め、ついで全国を歴遊。元禄11年(1698)43歳で江戸下谷に塾を開く。享保から寛保の間、津藩6代藩主藤堂高治に認められ招聘されて儒官となり賓師の扱いを受けた。これは、支藩の久居藩も同じであった。両藩士が学び、優秀な人材を輩出した。享保16年(1731)76歳のとき藩候の招きで津に赴き講義した。雪渓の学説は、程朱の学の範囲にこだわらず、陽明の学も取り入れ、ほぼ仁斎の古義に近かった。謙虚で異を唱えるのを好まない性格だった。江戸や京都でも活躍。90歳近くになっても息災で、病むこと半日余りで没した。平素「自分が死んでも戒名の相談をしたり、墓誌を作ってはいけない」と言っていた。そのため「雪渓先生之墓」という6文字とした。著書:「下谷集」、「佐善遺文集」、「論語講義」など。90歳。
「世の中はただ何となく住むぞ善き心一つをすなほにはして」
佐善松渓(さぜんしょうけい) 宝永元年〜安永2年5月22日(1704-1773) ・・・23日説あり
津藩儒学者。父、佐善雪渓。名、元煕。通称、源之丞。号、松渓。父雪渓に学ぶ。父の没後、津藩と久居藩の両藤堂家から儒臣の待遇を受けた。晩年の明和9年(1772)目黒行人坂の火事に遭い佐善家も焼け貴重な書物や雪渓の書いた物もすべて焼失した。70歳。
佐善月渓(さぜんげっけい) 寛保2年?〜文化9年(1742?-1812)
儒医。名、久寿のち伊与田。父、佐善松渓(次男)。祖父、佐善雪渓。鳥取藩士。明和9年(1772)家が火事に遭い官を辞め辻秀庵に住居を移し、医学・儒学を生業とした。法名、「器応門量信士」。70歳。
墓は、玉林寺 (谷中1-7-15)。墓地入り口の階段上より斜め左方向。自然石。当時の儒学者の墓碑は戒名を書かず、本名を記すのが常だったようだ。
※当3名の故人歴情報は、H.N.もへい様から寄せられた情報をもとにさせていただいた。