渋沢篤二(しぶさわあつじ) 明治5年〜昭和17年(1872-1942)
父、渋沢栄一(長男)。母、千代。母、千代没後、長女歌子夫婦に養育される。明治28年(1895)公家出身の橋本敦子と結婚。明治29年(1896)長男敬三が生まれる。明治30年(1897)渋沢倉庫会社の事務取締、のち取締役会長となる。20歳のころ不祥事を起こし、のちも行動正しからず裁判により大正元年(1912)1月廃嫡となった。昭和6年(1931)栄一没後襲封するも襲爵せず、敬三が襲爵する。その後は、玉蝶と白金で暮らし遊び三昧の余生を送った。著書は、死の4ヶ月前、「龍門雑誌」に「父の思ひ出の断想」を書いている。
渋沢敬三(しぶさわけいぞう) 明治29年8月25日〜昭和38年10月25日(1896-1963)
民族学者・財界人・子爵。父、渋沢篤二(長男)。母敦子は、伯爵橋本実梁の娘。動物学者を志していたが、父の渋沢篤二がスキャンダルを起こし、裁判の結果廃嫡となったため、祖父栄一より第一銀行を継ぐように嘆願され引き受けることを約束した。東京帝国大学経済学部を卒業後、大正10年(1921)横浜正金銀行に入行。大正11年(1922)に母の父岩崎弥太郎の孫娘登喜子と結婚。昭和元年(1926)第一銀行に移る。昭和6年(1931)栄一死去に伴い子爵を襲爵。副頭取などを経て、昭和17年(1942)日本銀行副総裁、昭和19年(1944)には第16代総裁。戦後、幣原喜重郎内閣の大蔵大臣に就任。財閥解体の中で昭和21年(1946)に公職追放の指定を受ける。その後国際電信電話(KDD。のちのKDDI)社長、文化放送社長などを務める。一方、大正3年(1914)に柳田国男と出会って以来民俗学にも傾注し、大正10年(1921)「アチックミュージアム」を作り、動植物の標本、化石、郷土玩具などを展示した。昭和12年(1937)日本民族学会を設立。また、「豆州内浦漁民資料」で日本農学賞を受賞した。 著書:「日本釣魚技術史小考」、「日本魚名集覧」、「塩俗問答集」など。
墓は、谷中霊園 乙11号1側。渋沢栄一墓域内の合祀墓(納骨堂)。当該合祀墓は、渋沢敬三以降の合祀墓でもある。また、この納骨堂の中には、一尺余りの観音様が安置されているという。