渋沢平九郎(しぶさわへいくろう)     嘉永元年?〜慶応4年5月23日(1848?-1868)

    渋沢栄一の義兄(千代の兄)尾高新五郎(惇忠)の末弟。父、尾高勝五郎(五男)。慶応3年(1867)平九郎の姉の夫渋沢栄一の渡欧に際し仮養子となり渋沢姓を名乗る。戊辰戦争の折り、渋沢栄一の従兄である渋沢成一郎は、天野八郎らとともに「彰義隊」を結成、新五郎と加盟するが、のち強硬派と別れ、尾高新五郎と新たに「振武軍」を組織し、平九郎は参謀を努めた。「彰義隊」が敗北すると、残兵を集め飯能天覧山・能仁寺を本陣とした。官軍に追討され敗れ、平九郎は朝顔峠を越え黒山村で官軍の芸州藩斥候兵に撃たれ、重傷を負い自刃した。20歳。首は官軍によって越生にさらされ、胴体は村人の手により全洞院に葬られたが、のちに渋沢栄一により谷中霊園に改葬された。「渋沢平九郎追懐碑」(明治31年6月建之)が同墓域にある。

墓は、谷中霊園 乙11号1側。渋沢栄一墓域内。正面「渋沢平九郎之墓」。墓碑裏には享年20歳とあるが、碑には、22歳とある。