宇和島藩医師。愛知県北宇和島郡出身。父、布俊悟(長男)。諱、英達。号、高養楼。旧名、布清恭。天保4年(1833)京都・大坂・長崎で医学を修業。弘化4年(1847)宇和島で開業。嘉永2年(1849)竜光院下の川中島に移る。嘉永4年(1851-1853)再度長崎にて修業。安政2年(1855)宇和島で種痘を施す。安政3年(1856)長崎に赴き藩の支援を得て中風治療の医療用新式電気機械を購入し蘭医ハンデブリュッツらに電気での治療法とその効用を学ぶ。この治療が前藩主伊達宗城に認められ、万延元年(1860)藩の御目見得医師となり、文久2年(1862)典医となる。布清恭を名乗り、さらに天民と改名した。慶応3年(1867)姓を志賀と改めた。維新後、藩主に従い東京に出て軍医寮に出仕。明治4年(1871)栃木県医に出向。のち、長野県上田病院長となる。病気となり退職し東京に帰った。