重宗芳水(しげむねほうすい) 明治6年7月11日〜大正6年12月30日(1873-1917)
明電舎の創業者。父、吉川藩の裁縫を家業とする貧しい江木清高(次男?)。岩国錦見鉄砲小路出身。幼くして父を亡くし母の生家重宗信之の養子となる。明治20年(1887)14歳の時、同郷の三吉正経を頼って上京し、「三吉電気」に入社した。工場で働くかたわら、東京工手学校の機械科で学び、明治24年(1891)卒業。明治27年(1894)工場の電灯電力機械部主任となるも、明治30年(1897)三吉電気が倒産。芳水は11人の仲間と、わずか500円の資金で築地に明電舎を立ち上げた。創業当時は仕事もなく大変苦労したが、交流、直流それぞれの発電機、誘導電動機などの新しい製品を作り、会社が発展した。日露戦争において日本を勝利に導いたのが実は、原東禎造と開発した明電舎の作った発火機だったという。日露戦争特需で明電舎は大きく飛躍した。工場も船橋町から明治町に拡張移転し、従業員も増えた。さらに、大正2年(1913)には、工場を品川区の大崎町に移し、敷地二万平方メートル、従業員500人の会社となった。芳水の没後は、妻のたけ子が社長になり、事業の発展に尽くした。44歳。
重宗たけ 明治9年〜昭和5年(1876-1930)
明電舎社長。芳水の後を継ぎ、明電舎の社長となる。隣接地の買収・工場の増築・研究所の設立・製品の改良・技術者の欧米派遣・高級機械の導入をし、ブランドを海外にまで高めるに至る。大正8年(1919)荏原に芳水小学校を建設。公共事業により紺綬褒章を受章。昭和3年(1928)緑綬褒章受章。「敬真院妙操日芳大姉」。
※ 第3代社長は、長男早世のため二男麟太郎がなり、芳水を襲名する。
墓は、乙11号12側。御隠殿坂手前を北に上がる。正面「重宗芳水夫婦之墓」。隣接する政治家重宗雄三は、弟。