日本画家・写真師。父、狩野派御用絵師静知斎洞章。江戸浅草出身。本名、清水三吉。号、玉竜。父に学んだ後、13歳で安政元年(1854)鍛冶橋狩野派に入門して「玉龍」を名乗る。長崎出島のオランダ商館の医師として日本に派遣されていたシーボルトから安政6年(1859)に要請を受けた幕府の命令で文久年間(1861-1863)に長崎に赴き、日本の植物研究を行うシーボルトについて、植物の写生を手伝った。その折に洋画と写真術を学ぶ。日蘭和親条約の締結で再来日したシーボルトに再び雇われ植物絵を描いた。文久2(1862)年シーボルトが離日する際に、写真機材一式を譲り受け、明治5年(1872)に横浜弁天通り住吉町に開業し、同年10月東京日本橋に移転、翌年には呉服町に移り、その後再び横浜へ戻り、油絵を描いた。後に宮内省の御用写真師となる。
※シーボルトは、川原慶賀や清水東谷をはじめとする当時の日本の絵師たちに多くの植物図を描かせたが、これらは後に、シーボルトの植物学上の重要な研究書「日本植物誌(フローラ・ヤポニカ)」の基になった。