相馬大作(そうまだいさく)招魂碑/下斗米大作    寛政元年〜文政5年8月29日(1789-1822)

    津軽藩の転覆を計った南部藩士。盛岡藩二戸郡福岡村(二戸市)出身。本名、下斗米秀之進(しもどまいひでのしん)。別名、下斗米大作(しもとまいだいさく)。文化3年(1806)18歳で江戸に出て武術を夏目長右衛門に師事、兵法武術を紀州藩士平山行蔵に師事し四傑の一人となった。その後、郷里福岡で講武場兵聖閣を設立し、武術指導を始めた。盛岡藩主利敬(としたか)が早死にし14歳の利用(としもち)が継いだが地位が無冠。一方、家臣筋の津軽寧親(つがるやすちか)は従四位下(じゅしいのげ)となったのに不満を持ち、文政4年(1821)相馬大作が秋田藩白沢(大館市)で津軽寧親に隠居勧告文を突きつけ、矢立峠で襲撃しようと計画したが、事前に発覚するという狙撃未遂事件(相馬大作事件)を起こした。江戸に逃げ、実用流剣術指南相馬大作の名で武術指導をしていたが、津軽藩の追っ手に捕らえられ、小塚原において死罪となった。34歳。これが芝居になり評判をとった歌舞伎の初代市川右団次(1843-1916)が、明治15年(1882)2月魂碑建立。

※ 相馬大作事件:南部騒動または桧山騒動ともいう。未遂事件であったにも関わらず厳しい処置となった。なお、事件の背景には、南部家の家老津軽為信は、小田原の役の戦功めざましく、豊臣秀吉に認められ独立して津軽藩をたて、主家を裏切った奴として、南部藩は津軽藩に対して、200年の恨みがあった。

招魂碑は、谷中霊園甲2号5側。裏面には同時に処刑された関良助の名もある。墨田区吾妻橋の妙縁寺に「相馬大作の首塚」がある。