杉山和一(すぎやまかずいち/わいち)/杉山検校(すぎやまけんぎょう)     慶長15年〜元禄7年5月18日(1610-1694)・・・異説あるも命日は18日とされる

    江戸初中期の鍼科医・鍼灸杉山流の創祖・初代検校。幼名、養慶。父、藤堂藩下臣杉山権右衛門重政(長男)。伊勢国安濃津(三重県津市)出身。幼くして失明、家を義弟杉山重之に譲り、江戸で検校山瀬琢一(やませたくいち)に師事するが、覚えが悪く破門となる。途方にくれ相州江ノ島の弁天堂にこもり、37日間の断食修業をして何かを悟り、京都の鍼科の宗匠入江豊明(いりえとよあき)に師事。のち、江戸で2師の技術を取り入れ独立し名声を上げる。寛文11年(1671)検校となる。貞享2年(1685)将軍徳川綱吉の病を治し、元禄2年(1689)関東惣禄検校となる。72歳のとき綱吉の命により鍼治講習所である「杉山流鍼治導引稽古所」を設立。後継は、門人の三浦安一。著書:「療治大概集」、「選三要集」、「節要集」(以上を杉山3部書と呼ぶ)。
※ 鍼治講習所は明治4年(1871)の太政官布告で廃止となる。

墓は、大雄寺墓地(谷中6-1-26)。本堂横を行き、本堂裏角の先を左に、すぐ右に、また左に行く。正面「杉山家累代之墓」。「即明悦殿眼叟元清権大僧都」。九世が記した墓誌によると、「家祖和一墓は本所弥勒寺にあり、二世から四世が赤坂円通寺に、また五世墓が大雄寺にあったものを、明治31年に六代を大雄寺に合葬にした」とある。墓誌には二世から七世までの名があることから、”六代”とは、このことかと思われる。また、大正時代に改葬したとき本所弥勒寺の墓からは遺骨は出なかったという話もある。したがって、大雄寺に和一の遺骨はない可能性が高い。墓誌を記した明治31年時点では、和一墓は弥勒寺にあるものと思っていたのだろう。和一墓は、江ノ島の杉山検校墓所に葬られているという説がある。