荘清次郎(しょうせいじろう)    文久2年〜昭和元年12月25日(1862-1926)

    三菱会社理事。父、肥前大村藩士荘新右衛門(長男)。明治19年(1886)米国エール大学に留学。マスターオブローの学位を得る。明治23年(1890)帰国。岩崎弥太郎に認められ三菱会社に入社。のち、理事・専務理事となる。明治25年(1892)第119国立銀行大阪支店支配人。明治28年(1895)三菱会社に戻り、大正4年(1915)幹事のち事務理事。三女の慶子は、美術評論家福島繁太郎夫人。64歳。

荘清彦(しょうきよひこ)     明治27年〜昭和42年9月28日(1894-1967)

     三菱商事会長。父、荘清次郎(二男)。東京出身。大正9年(1920)三菱造船に入社。ロンドン支店・長崎造船所を歴任後、昭和7年(1932)三菱商事に異動。昭和19年(1944)機械部長。昭和22年(1947)常務取締役。同社解体で退職。大平建設工業を設立。清光産業・清和商事社長。昭和27年(1952)東京貿易社長。昭和29年(1954)再建された三菱商事副社長。昭和35年(1960)同社長。昭和41年(1966)同会長。三菱系各社の取締役を兼ねる。72歳。「瑞光院徳運清道居士」。

墓は、寛永寺谷中墓地。青山胤通墓の隣り。正面「荘家累代之墓」。