竹内綱(たけうちつな)    天保10年12月17日〜大正11年1月9日(1839-1922)

    政治家、実業家。吉田茂の父。高知県出身。自由民権運動家。土佐国(現、高知県)宿毛出身。明治元年(1868)の戊辰戦争では、旧幕府軍を追い東北地方に赴いた。維新後、大阪府、大蔵省に勤務。ほどなく辞めて自由民権権運動を推進。板垣退助の自由党創立に参加。明治23年(1890)第1回衆議院議員選挙に当選。また、ソウルと釜山間を結ぶ京釜鉄道、ソウルと仁川間を結ぶ京仁鉄道の建設に携わるなど実業家としての実績をもつ。なお、板垣退助が暴漢に襲われ倒れ、板垣が「板垣死すとも自由は死せず」言ったとき、板垣を抱きかかえたのが竹内綱。長男に竹内明太郎(たけのうちめいたろう:1860-1928)、五男に吉田茂(1878-1967)がいる。吉田茂の孫に麻生太郎総理大臣がいる。84歳。

竹内虎治(たけうちとらじ)     ?〜昭和25年12月12日(?-1950)

     父、竹内綱(三男)。内閣総理大臣吉田茂(5男)の兄。竹内明太郎(長男)の弟。妻千美(ちび:昭和46年8月5日没)は、ジャーナリスト中江兆民の娘で、中国学者中江丑吉の姉。板垣退助の紹介で結婚。娘浪子は、中国共産党員鈴江言一に嫁す。著書:「朝鮮の私設鉄道」。

※ 中江兆民: 思想家・ジャーナリスト・政治家。ルソーの「民約論」を訳した。

※ 鈴江言一: 中国革命時の中国共産党員。竹内千美の家をたびたび訪問して浪子に会い、10日間で婚約した。直後、上海に戻る途中で、憲兵により満鉄調査部事件に連座し逮捕された。今田新太郎の支援で8カ月後に釈放された。昭和18年(1943)9月18日に結婚。言一は、昭和20年(1945)に帰国中に没した。浪子は、平成11年(1999)5月10日90歳で逝去。

※ 竹内明太郎: 実業家・政治家。自動車の"DATSUN"の"T"は、竹内の頭文字。この墓には合祀されていない。

墓は、谷中霊園甲8号13側。正面「竹内綱之墓」。