滝廉太郎(たきれんたろう)    明治12年〜昭和36年(1879-1903)

    1879(明治12年)8月24日 東京都芝区南佐久間町出身。父、吉弘。役人であった父の転勤で、横浜、富山、東京を転々とし、横浜に移り住んだ時には3歳だったが、当時の横浜には、鉄道やガス灯など西洋の多くの文化に溢れていて、廉太郎の姉のジュンは外国婦人に洋裁や編み物を教わり、ヴァイオリンやアコーディオンを習っていたという。廉太郎が洋楽を志し、留学したいと考えるようになったのはこの頃の影響だと思われる。その後、父は大分に赴任するが祖母と病弱な姉と共に一時東京に残るが、翌年に大分に移る。さらに、豊後竹田へ転居(瀧廉太郎記念館は豊後竹田にある)。明治27年(1894)上京し、麹町の従兄滝大吉の家に寄宿。9月に東京音楽学校(予科)へ入学(15歳)。明治31年(1898)本科を首席で卒業。9月に研究科入学。明治32年(1899)9月音楽学校嘱託となり、教師としてピアノのレッスンを受け持った。明治33年(1900)「城の月」、「花」を含む組曲 「四季」 「箱根八里」 「お正月」などを作曲。明治34年(1901)4月ピアノ・作曲研究を目的として3ヵ年のドイツ留学へ出発。10月ライプチヒ王立音学院入学。明治35年(1902)10月、病気のため、ドイツより横浜港に帰省。真冬にオペラを観に行き、素晴らしい演奏に興奮、遠い下宿まで歩いて帰ったために、かぜをひき肺炎から結核に至ったと言われている。大分市の父母のもとで療養。明治36年(1903)2月、遺作「憾(うらみ)」を作曲。6月29日、病死(23歳10ヵ月)。