玉川勝太郎(たまがわかつたろう)・2代 明治29年5月1日〜昭和44年8月13日(1896-1969)・・・3月10日生れ説あり
浪曲家。本名、石渡金久。東京牛込出身。父親が初代の大ファンであったため、大正2年(1913)17歳のとき初代玉川勝太郎に入門させられた。初名は玉川次郎。昭和6年(1931)勝太郎を襲名(7年説あり)。その後芸に磨きをかけ大看板となった。昭和10年(1935)ころから2世広沢虎蔵の「清水次郎長」と勝太郎の「天保水滸伝」がライバルとして覇を競った。のち、昭和31年(1956-1964)日本浪曲協会会長。引退してからは勝翁を名乗った。相三味線は、妻の玉川花江。73歳。
玉川勝太郎(たまがわかつたろう)・3代 昭和8年5月20日〜平成12年10月4日(1933-2000)
浪曲家。本名、石渡栄太郎。東京日本橋出身。京橋実業中退。昭和22年(1947)ちぬの浦孤舟に入門小太郎を名乗る。翌年2代勝太郎に入門し、玉川福太郎を名乗る。昭和29年(1954)幹部に昇進。昭和39年(1964)2代目勝太郎引退に伴い、3代目勝太郎を襲名。「天保水滸伝」、「ねずみ小僧」などを得意とした。平成元年(1989)芸術祭賞受賞。平成6年(1994)日本浪曲協会会長。
玉川花江(たまがわはなえ) 明治20年?〜昭和39年1月25日(1887?-1964)
曲師。本名、石渡アグリ。2代目玉川勝太郎の妻女。東京出身。戸川花助の門下で、戸川花江と名乗って修行。少女時代から芸事に才をみせ、入門してからの腕はメキメキ上達。初代玉川勝太郎の門下を弾き、2代勝太郎の兄弟子の某と結婚したが離別。一時初代の許に寄宿していたが、初代の勧めで2代勝太郎と再婚した。まだ2代勝太郎が売れていない時代で、名曲師としての花江の助力によって、その後2代目は頭角を現して来た。先夫との間に出来た男の子と暮らしていたが早世したそうである。77歳。
※ 花江の故人歴情報は、森光俊様のご提供を一部編集させていただいた。
墓は、寛永寺第二霊園 三浦環の先。広い通路から2基目、右側。正面「石渡家之墓」。「至芸院玉泉勝翁居士」。墓の隣りに元総理大臣の田中角栄書の「利根の川風袂に入れて月に棹さす高瀬舟」の碑がある。3代目「宝声院王鑑勝義居士」と合祀。玉川花江も合祀と思われるが、墓誌に記載なし。ちなみに、初代玉川勝太郎は葛飾区の宗念寺に眠っている。