棚橋絢子(たなはしあやこ) 天保10年2月24日〜昭和14年9月21日(1839-1939)
明治〜昭和期の教育者。大阪出身。幼名、貞。号、梅香・梅巷・梅庵。父、大阪の酒造業牛尾田庄右衛門(長女)。奥野小山に漢学を、三瓶信庵に書を学ぶ。安政4年(1857)19歳のとき美濃国伊自良郡松尾村(山県市松尾)の代官棚橋真吾右衛門の息子で視覚障害者である漢学者棚橋大作(下記)と結婚、絢子と改める。5年ほどして棚橋家は諸事情で録を失い生活に困窮、絢子が寺子屋や裁縫の師匠をして生計を立てた。転々と住居を移し、明治5年(1872)名古屋の十番小学校教員となり、のち東京女子師範学校、学習院女子部などで訓導・教鞭を執り、明治19年(1886)d私立金声小学校を経営するも明治23年(1890)閉校。明治27年(1894)成立学舎女子部教頭。明治29年(1896)名古屋高等女学校校長を経て、明治33年(1900)愛敬女学校校長。明治36年(1903)高等女学校令による府下最初の4年制女子学校である私立東京高等女学校を棚橋一郎(下記)らが創立し、その初代校長に迎えられる。岩倉家、徳川家など十数家もの子女教育もおこなう。昭和13年(1938)100歳まで教壇に立ったが、高齢のため校長を辞す。その他、大日本婦人会・海軍協会婦人部などに関与した。101歳。「霊雲院梅巷妙蘂大姉」。
棚橋松村(たなはしまつむら) 文政10年〜明治26年5月25日(1827-1893)
漢学者。父、美濃国山県郡の代官棚橋新吾右衛門(長男)。名は嘉忠。字、伯貫、通称、大作。棚橋衡平の兄。岐阜県出身。二本松藩士。25歳で失明したが、大坂に出て、詩学を広瀬旭荘に学んだ。妻の絢子に本を読んでもらい、詩文を筆記してもらうなどして学問を続けた。「勁松院大節嘉忠居士」。
※ 棚橋松村故人歴情報のご提供は、森光俊様。
棚橋一郎(たなはしいちろう) 文久2年〜昭和17年(1862-1942)
教育者・歴史家。父、棚橋松村(長男)。母、棚橋絢子。岐阜県出身。父に諸学を、母に習字を学ぶ。また、佐藤牧山・山田千畝に皇漢学を学ぶ。明治17年(1884)東京大学文学部卒業。大学予備門御用掛、教諭。明治21年(1888)陸軍幼年学校・東京府立一中教諭。明治22年(1889)28歳で郁文館中学を創立。明治36年(1903)母と東京高等女学校を創立。明治35年(1902)衆議院議員。明治38年(1905)東京市会議員。本郷区学務委員長。本郷区会議員。
墓は、全生庵(谷中5-4-7)。山岡鉄舟墓手前北(左)側、生垣の中。夫である大作の墓と並んでいる。正面は「梅巷女先生之墓」。一郎の墓は、同一区画内にある。なお、絢子の実家である牛尾田家の墓も同一区画内にある。また、棚橋勝太郎は、絢子の孫で、郁文館学園・東京高等女学校校長。全国私立中学高等学校連合会副理事長。
棚橋松村墓
棚橋一郎墓
牛尾田家墓